2007年 6月 12日 (火) 

       

■  〈グラフ〉台湾の発展を支えた県人 李登輝氏が本県訪問

     
  平泉で家族とともに大矢氏の説明を受ける李氏  
 
平泉で家族とともに大矢氏の説明を受ける李氏
 
台湾前総統の李登輝氏(84)が9日まで日本に滞在、初めて岩手県入りした。李氏は平泉町で中尊寺に遊び、奥州市に後藤新平、盛岡市に新渡戸稲造の足跡を訪ね、台湾と岩手のゆかりを実感した。李氏は後藤新平記念館と盛岡市先人記念館を見学し、「これほど多くの人材が岩手県から」と賛嘆した。明治の台湾に汗を流した県人を故国の先人と仰ぎ、岩手を見つめ直すよう県民に問いかけた。

 李氏の来県は李登輝先生を歓迎する岩手の会(岩根哲哉代表)が先導し、達増知事夫人の陽子氏、谷藤裕明盛岡市長、相原正明奥州市長らが歓迎した。今回の訪日は政治的側面はなく、あくまで文学と歴史の旅。秋田県の国際教養大学長の中嶋嶺雄氏が同行し、中尊寺では平泉郷土館長の大矢邦宣氏が解説した。

     
  芭蕉の像のかたわらに立つ李氏  
 
芭蕉の像のかたわらに立つ李氏
 
  「奥の細道」を座右に置く李氏は芭蕉の心をしのんで平泉入り。「夏草や」の景色を満喫した。中尊寺で「かつての奥羽には大きな都があった。わたしはなぜここに都を置いたかその理由が今でもまだ解けない。なぜここに藤原家が大きな城と屋敷を作ったか」と語り、はるかな栄華の夢に浸った。

  京都大に学んだ李氏は、日本の文学と思想を骨肉のものとしている。「芭蕉は義経にとても良い感じを持っていたらしい。だからここに来て『夏草や つわものどもが夢のあと』と金鶏山を見て歌った。中尊寺の歴史を考えると、かつて日本の東北におけるひとつの大きな都だった。なぜここに大きな都をつくったかという理由が見つからない。大事なことだ。藤原家が京都から離れて豪華な文化をつくったのは大変なことではないか」と話し、青春の古都に思いを重ね合わせた。

  大矢氏の「東北地方の真ん中に都をつくり、みちのくを平和な世界にしようというのが清衡の考えだった」との解説に、李氏は「中央という以外、ここに何か大きな産物ができて財源になるものがなければ、なかなか立っていけるものではない」と、為政者らしい言葉でただした。

  大矢氏は「その当時、日本は東北地方でしか金が採れなかった。中国にも輸出していた」と答え、李氏は東洋史の中の平泉に感慨を深めていた。

  李氏は今回、藤原書店が創設した「後藤新平賞」受賞のため訪日した。日本統治時代に民政長官を務めた後藤のふるさとに、李氏は近代台湾のルーツを探った。後藤の生誕150年を祭る記念館で、「生誕150年に当たり毎年記念祭を開き、学生を集めてお話しているという。陳列館に並んだ後藤新平は台湾、満鉄、東京、NHKなどの時代にたくさんのことをやっていた。陳列館は将来、非常に価値がある。台湾では後藤新平とは何か、今の新聞記者に分かっていないのでは」と、同行した台湾の報道陣に投げかけた。

     
  後藤新平生誕150年記念の壇上で講演する李氏(後藤伯記念公民館で)  
 
後藤新平生誕150年記念の壇上で講演する李氏(後藤伯記念公民館で)
 
  「戦前の台湾を近代化した後藤の8年7カ月の努力が実ったのはなぜか。後藤が専門家として、行政官として以上のことをやったから。水沢から後藤が出たのは大変なことだと思う。今になってなぜ後藤新平かということにぶつかる。これからは後藤のようなリーダーシップが必要、後藤が何をやったか教えることが必要だ。後藤は100年先を見ていた。今の政治はきょうあすのことしか見ない。国が発展するための見通しを100年持っている政治が必要だ」と語り、国家の経綸(けいりん)を示唆した。

  盛岡市の先人記念館ではさんさ踊りの歓迎の中、新渡戸稲造記念室を訪れた。李氏には「武士道解題」の著書があり、新渡戸精神を世界に向けて翻訳している。日本統治時代に糖務局長として台湾農政に手腕を振るった新渡戸の足跡を訪ね、遺品を目の当たりにした李氏は、改めて先人との対話を深めていた。

  李氏来県の模様は岩手放送で7月1日午後3時から、後藤新平生誕150周年特別番組「台湾と岩手の絆(きずな)」(仮題)で放映される。

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