2007年 6月 15日 (金) 

       

■   〈古文書を旅する〉171 工藤利悦 このたび南部の称号を下し置かれ候

  ■ 利敬公御代南部の御称号を下さること

  一、利敬公御代南部の御称号を下さる事

  文政元(一八一八)年戊寅十月六日御呼出し、左の通り仰せ渡せらる。

  八戸弥六郎 中野筑後 北九兵衛 南彦六郎 東勘解由

  近年御家格も御直り御高増まで御昇進の上、往古より家柄もこれあり、かたがたこの度南部の御称号を下し置かせられ候の間、嫡子嫡孫ともに相名乗り候様仰せ出ださる。

  ただし、二三男はこれまでの通り苗字を名乗り候事

  一、御家門方、已来南部の御称号を下し置かせられ候の間、嫡子嫡孫ともに相名乗り候様仰せ出ださる。ただし、二三男はこれまでの通り苗字を名乗り候事

  一、南部此面殿こと左京殿 南部豊次郎殿こと左近殿と名改め伺の通り仰せ出ださる。

  十月六日

  天量院(三十三代利視)様御子に付き 慈眼院(利視息女寅子 漆戸舎人茂徳室)殿儀、この度紋形「輪なし鶴」御免に成る。御家門方の御扱いを仰せ出ださる。

  十月六日 右り通り御触書

  三戸此面様御こと南部左京殿、三戸雅楽助様御こと南部雅楽介殿 三戸駒五郎様御こと南部駒五郎殿

  右御方に輪なし鶴紋御免 これまでは井桁菱に鶴紋を御用いる

  八戸弥六郎こと南部弥六郎 中野筑後こと南部筑後 北九兵衛こと南部九兵衛 南彦六郎こと南部彦六郎 東勘解由こと南部勘解由

  右人数へ輪なし鶴紋これ下さる

  毛馬内両家(近江・典膳) 年表(『盛藩年表』)に八戸淡路・楢山帯刀あり

  右家柄もこれあるに付き 輪なし鶴紋所を拝領仰せ付けらる。(「「篤焉家訓」」)

 【解説】『南部史要』は文化十四(一八一七)年十一月の条に「古来唱へ来りし南部藩を改めて盛岡藩とす」といい、『盛藩年表』は同年十一月三日条に「古来南部領と唱え来候ところ、已来盛岡領と相唱候旨、御用番阿部備中守様へ御届けこれあり」と記録する。

  改称理由については、他藩の例を見るまでもなく、本来「南部領」とは南部家の領地を意味した語彙(ごい)と思われるが、『国統大年譜』は「南部は甲州(山梨県)の村名に付き、自今盛岡を以て通称云々」と伝える。

  蛇足ながら、藩という用語は、文化六(一八〇九)年に起稿し天保十四(一八四三)年完成とする幕府編纂『徳川実紀』(慶長七年正月十五日条)には、藩士の用語が既に散見する一方、南部家の記録上でも天保五(一八三四)年に箱館高龍寺に建立した、寛政元年以来の蝦夷地で死去した将兵の供養碑に「国家命吾盛岡藩而初従寛政至干文政申年令備守於蝦夷諸島矣、是乎征役之士庶隕命異地云々」(『御系譜』同年六月十九日条)と盛岡藩の名が刻まれている。しかし、公称について『復古記』は慶応四年(一八六八)二月十一日付でもって諸藩を分ちて、大中小三等とし、四十万石以上を大藩、十万石以上三十九万石迄を中藩、一万石以上九万石迄を小藩と定義。陸奥国盛岡城主南部利剛の領国を二十万石盛岡藩と明記。一般的には、同年閏四月二十一日に、明治政府が布告を以て旧幕府領地を府県、旧大名領分を藩と改めた時から、明治四年(一八七一)七月十四日の廃藩置県に至る期間に限定されたものであるとされている。

  従って、明治政府によって使用されたものであり、私たちが盛岡藩とか南部藩と称して使用する「藩」という慣用語は、明治期の歴史家が、江戸時代にさかのぼって援用したことに始まるもの。幕府として公式に使用したことはないことを付記する。

  『南部史要』が「南部藩改め盛岡藩」と言うときには、その延長線上にある。よって、ここで使用する南部藩・盛岡藩は慣用語である。既述の『盛藩年表』は天保六(一八三五)年を以て擱筆(かくひつ)としている記録である。

  さて、実は藩名改称に関連する初見は、文化六年八月九日の布告。「江戸往来の節御家中荷札これまで南部家中何之誰と一統認め来たり候処、以来盛岡何之誰と相認め申べく旨仰せ出ださる」(『御家被仰出』)を見る時点までさかのぼる。

  その理由は前年五年十二月十八日に、十万石から二十万石に嵩(かさ)上げされ、南部家として最も晴がましく国主としての待遇を受けることなったことに起因していることが知られる。

  同日侍従に任ぜられたこともあり、翌六年七月五日に到来した五月三日付の将軍徳川家斉御内書(将軍の名で発給する書状のこと)の宛名は盛岡侍従殿とあったことが理由。幕府から南部家に到来する御内書は、端午(五月)と重陽(九月)および歳暮(十二月月)の三度が慣例。これまでも侍従に任ぜられた藩主は存在するが、宛名は南部大膳大夫殿とか南部信濃守殿とあるのを恒例としていた。

  この慶事を記念して菩提寺聖寿寺に五重塔が建立(文化八年落慶法要)されたことと合わせ、同年八月九日付藩名改称は一連の流れの中にあった事柄。続いて同年十一月十一日には領内の商人をはじめ、全領民に向けて呼称変更を伝達、徹底を期している。

  御内書が到来して三十四日目であることから推して、まさに盛岡侍従の盛岡を象徴した電撃的な改称であったと勘考する。ただし、何故に幕府への届け出が八年も経過してこの時期、文化十四年十一月にずれ込んだものか、寡聞にして明らかではない。

  しかも、この記録に見る「南部の御称号を門葉諸家に下さる」は、藩の名称変更を幕府に届け出たひと月前。文化十四年十月のことであった。

  八戸弥六郎・中野筑後・北九兵衛(以上を三家という)・南彦六郎・東勘解由の五家に対して、「近年御家格も御直り御高増まで御昇進の上、往古より家柄もこれ有り、かたがたこの度南部の御称号を下し置かせられ候」の理由をもって、嫡子嫡孫とも(二三男については従来通りの苗字)に南部の称号を与えたほか、三十三代利視の末裔三家、三戸此面(左京・新屋敷家)・南部豊次郎(左近・三戸雅楽助・角屋敷)・三戸駒五郎(中屋敷家)に対しても南部を名乗らせている。『文政御支配帳』には

       御家門方

  一、千石  南部左近方(角屋敷家・利視九男三戸信駕を祖とす)

  存じ入りこれ有り以来南部の称号を相名乗り申すべく旨、文政元年十月六日仰せ出ださる

  一、千石 同断 南部左京方(新屋敷家・利視六男三戸信居を祖とす)

  一、八百石 内弐拾両御金方 同断 南部隼人方(中屋敷家・利視十二男三戸信周を祖とす)

  一、八百石 内弐拾両御金方 南部修礼方(下屋敷家・後藩主利済)

  文政四年十月朔日思召有之御家門方に御格御引上なさる

  一、壱万弐千七百拾弐石参斗 南部弥六郎(八戸家)

  往古より家柄も有之南部称号以来相名乗可申旨文政元年十月六日被仰出

  一、参千石 南部称号右同断 南部 筑後(中野家)

  一、弐千五百四拾八石弐斗八升弐合 南部称号右同断 南部 金作(北家)

  一、六百石壱斗余 南部称号右同断 南部彦六郎(南家)

  一、七百拾弐石壱斗弐升 南部称号右同断 南部 主殿(東家)

  『慶応元乙丑歳御支配帳』には

      御家門方

  一、弐千石 内千石御金方 南部出羽殿(藩主利剛弟・利済四男)

  一、弐千石 内千石御金方 南部伯耆殿(藩主利剛弟・利済九男)

      御三家

  一、壱萬弐千七百拾弐石 南部弥六郎(八戸家)

  一、参千石 南部吉兵衛(中野家)

  一、弐千七百六拾参石参斗壱升 南部監物(北家)
      御家老御礼座着座衆

  一、千石 南部銑次郎(新屋敷)

  一、千石 南部左近(角屋敷家)

  一、八百石 内百石御金方 南部主水(中屋敷家)

  一、六百石壱斗余 南部廉次郎(南家)

  東家については南部左膳政傳が天保十二年正月に自殺。大法(幕府の法令)により身帯家屋敷取上となり、その子継弥政図(のち中務・次郎)が東氏で召し出だされているため、右には表記されていない。

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