2007年 7月 1日 (日) 

       

■ 桜山神社に眠る南部中尉の鋳型 騎馬像の胸像部と確認

     
  桜山神社に保管されている南部中尉騎馬像の胸像の石こう型  
  桜山神社に保管されている南部中尉騎馬像の胸像の石こう型
 
  盛岡市の岩手公園内に台座だけが残る明治時代に建てられた南部中尉の騎馬像の胸像部の鋳型の原型が、公園内の桜山神社に眠っている。非公開のため市民のごく一部にしか存在は知られていない。第2次世界大戦中の金属特別回収で騎馬姿の銅像が消えて以来、台座のみが60年以上もの時を刻んできたが、来年2008年は建立された1908(明治41)年から100周年。以前から台座だけが残る旧盛岡城本丸の状況に時々市民から声が上がることもあり、型の存在は市民の関心を呼び起こしそうだ。

 銅像は南部中尉の騎馬像で、石こう型を基に造られた。鋳型の原型は馬の頭の部分が市内の報恩寺に納められていることは知られていたが、人物部分の存在はほとんど知られていなかった。中尉は最も重要な頭部から腰にかけての部分が残っていた。坂本広行宮司も先代のころからあったことは確認しているが、どのような経緯でいつから神社にあるのか不明という。ただ、腰から下や馬の体の部分は所在が確認されていない。坂本宮司によると、近年では10年以上前に学術研究論文で紹介されたことはあるが、それ以外にマスコミに出ることはほとんどなかった。

  盛岡市中央公民館の似内啓邦学芸係長は神社の実物と同館所蔵の写真を照合し、細部の造りなどを確認。「造りも一致する」と銅像制作の際に使われた原型とほぼ断定する。報恩寺の原型も耳の部分に違いはあるものの、細部は部分的に付け加えたり、別に型を作ったりすることがあるため、ほかの部分から原型に間違いないとみている。

  銅像は南部利祥(としなが)公の日露戦争での戦死を悼み、1906年に旧盛岡城跡に開園した岩手公園内への建立が計画された。原敬や田中館愛橘、鹿島精一ら岩手ゆかりの著名人らが中心となって資金を調達し建立にこぎつけた。銅像は新海竹太郎らが制作。台座は伊東忠太の意匠に基づき横浜勉が設計した。08年9月15日に完成、披露された。しかし、44年4月、金属特別回収で取り払われ今日に至る。

  南部中尉こと利祥公は1882年1月、利恭(としゆき)公の長男として東京で生まれた。幼少のころから乗馬に親しみその才に優れていたという。学習院初等科に入学し、皇太子(大正天皇)のご学友に選ばれた。1903年、南部家の家督を継ぎ第42代当主となった。華族の優雅な生活を好まず、質素な生活を通したという。

  利祥公は02年に陸軍士官学校を卒業し、翌年には近衛師団騎兵連隊第1中隊に配属。04年に日露戦争が開戦となり、近衛師団も外地に出征した。05年、敵弾に倒れて戦死。わずか24歳で帰らぬ人となった。

  同郷の原敬は南部家の相談役を務めた。原の盛岡藩に浴びせられた朝敵の汚名をすすぐ行動と通底するように、利祥公が軍人の道を選んだのには国のために尽くそうという意志の表れでもあったとみられる。

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