■ 〈古文書を旅する〉工藤利悦 ご普請場所ならびに持ち運びの道にては…
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■ 江戸代官丁御堀浚(御普請)御手伝之事
利幹公御代宝永五(一七〇八)年子五月代官丁御普請御手伝い御勤め遊ばされ候に付き、御相役ならびに公義御役人左の通り。
十万石 南部大膳亮(利幹)・七万余石(豊後・岡城主)中川因幡守・六万余石(肥前・平戸城主)松浦壱岐守
公義御用懸御役人
【惣奉行】松平右京大夫、【御承人】稲垣対馬守、【御作事奉行】曲淵越前守、【大普請方】三枝左兵衛、【小普請方】竹村権左衛門・久留十左衛門、【御目付】久松忠次郎、【本庄材木奉行】川内市郎右衛門・奈佐四郎左衛門・平井三五郎・井上三郎兵衛、【猿江源盛小櫻奉行】鈴木弥市郎・平岡庄左衛門・服部八右衛門、【大工肝煎中帳改】尾崎江右衛門・福田藤九郎、【大工棟梁】依田壱岐・村上淡路
右の外公義御役人八十余人、それぞれ御役掛これあり候えども略す。
此方様より御用懸御役人詰め合い人数〈かっこ内は『書留』『雑書』の記録〉
【惣奉行】中野吉兵衛、【添奉行】下田覚左衛門・瀧六右衛門、【普請方】吉田宇右衛門・佐藤勘助、【元〆】石亀弥左衛門・穴澤宇左衛門(宇右衛門)、【取次】奥寺八左衛門・波岡六右衛門・岸半五郎・坂牛権太夫、【目付】山田兵太夫、【石方】四戸市左衛門(材木方)・村松喜八郎、【勘定方】浦上十太夫、【勘定方手代】杤内喜右衛門・倉館久右衛門・宮 庄之助、【砂利方】穂高彦右衛門・仁木三郎左衛門(材木方)・矢幅嘉太夫、【手代】川口清兵衛(中小性分)・船越弥助(中小性分)、【金奉行】野辺利右衛門・大湯貞右衛門(中小性分大湯定右衛門)、【食札奉行】遠藤惣三郎(中小性分)・中嶋権四郎(中小性分)、【食座奉行】小山田左七郎(中小性分)・豊巻新右衛門(中小性分)、【賄・普請場所ばかり】佐藤友右衛門(中小性分)
下役 板の間 配膳 料理 食炊
【茶道】田口伝斉、【祐筆】照井善右衛門・葛源五郎、【物書】中村兵九郎・志水半蔵・小向善次・佐藤武右衛門・平舘十之丞・吉田孫四郎、【場所立奉行】澤田宇右衛門・渡部宇兵衛・千種義左衛門・小菅新助・上田伊兵衛・津島弥七郎・奥村義太夫・帷子左助(左介)・佐々木又十郎・野々村定右衛門(貞右衛門)・日戸仁兵衛(人足小買物方)・嘉村喜大夫(土方)・生方次郎兵衛(鉄物方飾方)・浅石八郎(鉄物方飾方)・野村義太夫(かわら方)・松岡市兵衛(壁方)・山崎小市郎(人足小買物方)・吉田新七、【物書】山口忠兵衛・本堂藤四郎・浅水半平、【吟味下役】工藤弥右衛門、【給人立奉行(中小性分)】大光寺宇内・本宿与右衛門・立花義右衛門・山本平助・和井内甚平・佐羽内与七・工藤甚平・高橋弥吉・太田半兵衛・佐々木平蔵・小国又兵衛・椎名弥左衛門・杤内宇右衛門・田鎖庄右衛門・下杉茂太夫・人首喜右衛門、【徒目付】小本与惣兵衛(歩行目付小本惣兵衛)・一戸孫四郎(歩行目付)、【使者給仕】駒ヶ嶺右斉・高橋運茶・鎌田円斉
一、歩行十七人(十六人・御在所より十人呼ばせらる)
一、足軽二百二十七人(三百人・御在所より二百五十人呼ばせらる)
一、人足百人(御在所より)
一、小者五十人(御在所より)
【場所破損奉行小買物役ともに兼ねる】田鎖四郎兵衛・女鹿四郎左衛門、【大工棟梁】平三郎
○炊出請負人 堀口町二丁目・大口屋甚助、本材木町三丁目・相模屋弥七、木挽町四丁目・万屋勘右衛門、鑓屋町・伊勢屋吉兵衛、丸屋町・八百屋次郎右衛門、連雀町・水菓子屋善兵衛
○ 上々一人に付、朝昼晩弐匁壱分、上同断一匁六分二厘、中同断一匁弐分二厘、下同断一匁一分一厘
右は繕家具ともに炊き出しの方より出す
○ 吉兵衛より山田兵太夫までの役人十五人は上々の炊出し
○ 三百石より歩行衆まで上の炊出し
○ 足軽より家中若党までは中の炊出し
○ 小者人足、家中の中間まで下の炊出し
○ 世話人と申して鳶の者の様成る者御抱成され、これは十九人御抱え、よく働き候者なり
○ 新組と申して鳶の者二十六人御抱え成さる
右の外に殿様御供廻り百拾人、雑兵・御侍・御駕籠脇・御先供、その外御供廻り、毎日御出の節、これ又炊出仰せ付けらる
○ 御相役松浦壱岐守様より惣奉行松浦舎人、用人山田治部左衛門、元〆中井彦右衛門、御普請方安藤庄兵衛、桑名安右衛門
○ 同中川因幡守様より惣奉行中川吉内、元〆室十右衛門、御普請方高田半蔵、桜井武右衛門
公義より御書出の条々
一、御普請場所にて公義御役人衆中御差し図を得、諸事入念に相勤申すべく候、もっとも公義御役人へ対し、慮外ヶ間敷事仕りまじく事、
附、人足等御触れの刻限相違なく相詰めなし申べく事。
一、御小屋ならびに居小屋火廻油断なく相廻申すべく候、もし近所出火の節は早速駆け付け働き申すべく候。
附、自分小屋にて堅く火炊申すまじく候、もっとも、行灯は役人の外五ツ切りに仕廻り申すべく定め置かせられ候外にて莨草(たばこ)は一切給りまじく事・
一、生類大切に仕り申すべく候、材木あるいは石諸色取り置きの節、生類に障り申さず様つかまつるべく候。
一、諸色運送の節路次にて船路不調法これ無き様御役人へ立ち合い受け取り、宰領を付け、往来の輩に笠つけまじき儀つかまつりまじく候、もっとも生類に障り申さず様に入念申すべく事。
一、御普請場所ならびに持運の道にて喧嘩口論は堅く停止なすべく、堪忍成りがたき儀これあり候共、御普請の内相慎み申すべく候、もしこの旨相背くにおいては理非におよばず急度申し付けべく候以上。
南部殿様より仰せ出だされ
一、博奕その外諸勝負、堅く停止の事
一、上下によらず切手これ無く候て諸色門外に出ずべからず、相出で申さず候てかなわず儀これあり候はば、目付山田兵太夫切手を取り相出し申すべき事。
一、御普請場所の内へ諸商人入れ申すまじく候、入れ申さず候てかなわざる事候はば、札を以て入れ申すべく事。
附、組付はその頭、召仕はその主人より銘々堅く申し付けべく候
右の趣き堅く相守るべく、もし相背く輩これあるにおいては急度申し付くべく者也。
宝永五年五月
私(篤焉)言う、御代官町と申すは西の丸の後にて、今は将軍御子様の御屋鋪ありと言う。常に用いこれ無き所故に通り難し。故に行くもの稀なり。
(篤焉家訓)
【解説】
この記録は南部家が大名役の一つである普請手伝いにかかわった記録である。『徳川実紀』によれば、宝永四年八月二十三日条に「作事奉行曲淵越前守重羽、普請奉行三枝左兵衛守繋吹上花圃の営築を命ぜらる」と有るのを初見とし、十二月二十一日「阿部対馬守正邦、脇坂淡路守安照、鍋島紀伊守元武、花圃の修築に人夫出すべしと命ぜらる」等と続き、翌五年四月二十九日に阿部・脇坂・鍋島三家の跡役として「南部主馬利幹、中川因幡守久通、松浦壱岐守棟、代官町北丸搆造の助役」が命ぜられている。
ここに南部主馬利幹とあり、『篤焉家訓』に南部大膳亮とあるのは、前者は当時の名前(幼名)、後者は後世の編纂記録であるための相違。
宝永五年十二月に従五位下信濃守に叙任し、大膳亮と改めたのは正徳二(一七一二)年九月のことである。
惣地坪数六千八百坪に及ぶ整地事業で総事業費一万両(『書留』御普請御手伝)。『寛政重修諸家譜』南部利幹譜および相役松浦棟の譜は共に「代官町の普請」、同中川久通譜には「北丸の普請」と伝え、代官町は現皇居内、半蔵門から竹橋御門付近まで、堀(千鳥が淵)内に沿った区域の地名(尾張屋判「江戸切絵図」)と知られる。
十一月三日竣工引き渡しがあり(『書留』)、これに先立ち、十一月朔日「南部主馬利幹北丸経営助役はてて時服十五給ふ」、次いで十一月十日「北丸経営にあづかりし南部主馬利幹が家人等に銀、時服、羽織をたまふ事差あり」(『徳川実紀』)と見える。ちなみに、十月十五日には松浦、中川両氏に「時服十づつたまふ」、翌十六日には「細川越中守綱利に代官町営築の助役を仰付らる」が散見、一部事業は継続していた様子が垣間見える。 |
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