2007年 7月 6日 (金)
■ 〈古都の鐘〉23鈴木理恵 わが同志
わたしがヨーロッパに来て間もなくだったと思う。鉄瓶がコチラでも注目されるようになり、気の利いたティーサロンやセンスのよい食器を扱う店で見受けられるようになったのは。もうかれこれ15年ほど前になる。
パリのど真ん中のシックな店先で、「南部鉄器」のタグが漢字そのままに、盛岡市内の土産物屋にあるのと同じものを目にするのは、はじめはちょっとこそばゆいような、しかし誇らしいようなフクザツな気持ちだった。
シュテファン大聖堂裏手の専門店の店先。世界各国のお茶を扱う
鉄瓶! あの盛岡の家のお勝手で、昔からごくごく普通にお湯をわかしていたもの。誰もが洒落(しゃれ)などという意識などなく使っていたものではないか。
それでも同志を異国に見つけ、得意になる気持ちのほうが勝ったかもしれない。盛岡価格の2倍3倍もの値段がつけられている鉄瓶は〜やかんタイプのものよりひとまわり小振りの急須タイプのものが多いが〜いくら同郷のよしみでもさすがに買う気になれなかったが、そんな店でお茶を一杯飲むなり小物を買うなりした時に、何度か店の人に自慢したと思う。
エッヘン! これはわたしの郷里から来たものですぞ。
当初は一時の流行で終わってしまうかと、わが子の行方を案じていたが、今ではすっかり定着した趣で、あちこちの洒落た店の片隅に落ち着いてひとつふたつ常備されているという感じである。数年前に越してきたウィーンでもそうであるし、ヨーロッパを旅するたびに方々でお目にかかる。
とはいっても、何しろティーポットにしてはいかんせん高いので、どこの家庭にもひとつというわけにはいかないのであるが。
センスの良い年上の友人宅でも使われていたのを思い出す。特に日本びいきな人というわけではないが、誰からか送られて以来、使ってみたらなんだかお茶はおいしくなるし、いつまでも冷めないし、鉄分がとれて健康にも良いし、もう手放せないと言っていた。
わたしも改めて使ってみようか〜。あまりにも身近すぎ、その価値に目も留めずにきたけれど、こんなふうに、よその人からわが子の素晴らしさを逆に教えられている。
帰省の際、くぐったのは盛岡市内の、とある老舗ののれん。ちょうどフライパンを買い替えたいと思っていたところだったので、小さめのものをひとつ求めた。どうにもウィーンくんだりまで運ぶには鉄は重いのである。しかしそのかいは十分過ぎるほどにあった。ハンバーグもパンケーキも、ふっくらと実にいい感じに焼ける。もう手放せない!
友人のセリフはわたしのものとなった。偶然目にしたその老舗の店主のインタビューの中に、忘れ得ぬ一文があった。「作り手として、自分を深めることと壊すこと、この二つがなければならない」。
これは音楽も同じ。自分がいま手にしているものを掘り下げることと、既成観念にとらわれずに新しいものに挑戦してゆく勇気だ。
この真摯(しんし)な思いがフライパンの使い勝手の心地良さに通じているのだろう。それがわが街から生まれているというのはなんとも素晴らしい。
毎日ありがとうと、目玉焼きを焼きながら慈しむ気持ちがあふれてくる。深さと新しさ、わたしもそう生きていきたい。ものが語りかけるとはこういうことを言うのだろうか。それは地域や郷土愛という狭い枠を超えて、世界へと広がりを見せる。
ふとした折によそで鉄瓶を見かける時、思わず顔がほころぶ。おっ、同志よ、頑張れよ!と声をかけ合掌してその場を立ち去る。
(ピアニスト/ウイーン在住)
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