■ 〈続・岩手人の見た戊辰戦争〉27 和井内和夫 奥羽越列藩同盟と東北朝邸
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■奥羽越列藩同盟と東北朝廷−公議府の実態
テーマである東北朝廷の実態であるが、まずそれが実在したかどうか、つまり輪王寺宮(注1)が即位したかどうかであるが、それについては分からない。ただし、ある時期輪王寺宮を中心とした政治的組織が存在したことは確かである。その性格と実際にどう機能したか、将来に向けた具体的政治構想を持っていたかなどについてはいろいろな意見がある。
そのことを考える場合、東北諸藩が結成した奥羽越列藩同盟との関係を含めて検討しなければならない。
奥羽越列藩同盟に対する主な見方としては、
○薩長藩閥政権に対峙する全国的統一政権樹立の構想を持った東北諸藩連合政権である
○東北辺境諸藩のルーズな連合体にすぎない
という二つがある。
自分たちが提案した会津藩宥恕案を鎮撫総督府に拒絶された仙台・米沢両藩と、薩長の直接の攻撃目標とされ危機感を募らせていた会津藩の主導により成立したものであるが、それにこれも薩長の直接の攻撃目標である庄内藩を含めた4藩とその他の東北諸藩とでは、薩長藩閥に対する見方も会津藩の立場に対する理解も相当違っており、厳密な意味で同盟と言える程の意識の統一も結束力もなかったと思っている。
そのことは同盟の主導者である仙台藩が常に自藩本位の独自の行動をとっていることや、同盟成立から瓦解までを通し、前記4藩とも物事を決める場合、その4藩の中だけで相談こそすれ、その他の同盟内諸藩と協議する姿勢がなかったことに表れている。
そして最も重大なことであるが、東北諸藩が自軍に対する指揮命令権を同盟に委ねていたとは考えられないことから、軍事的な意味で指揮中枢として機能しなかったことは確かである(注2)。
したがって当初の目的である会津藩宥恕嘆願同盟としては機能していたが、東北独自の地方政権樹立の基盤としても、また戦争遂行のための組織としても機能していなかったと思われる。
輪王寺宮が会津から白石に移転(動座)し公儀府が設置されたのは7月18日であるが、当時は3カ月以上も続いた白河城争奪戦が同盟側の完敗に終わり、また磐城平藩が西軍に降り、同盟側の非勢が明らかになりつつあった時期である。
引き続く敗戦と、九条鎮撫総督の秋田行きを認めたことのような仙台藩の独断専行により、それでなくても弱かった同盟諸藩の結束がさらに弱まり、また仙台藩の指導力が急速に低下しつつあった時期である。
同盟の主導者である仙台・米沢両藩としては、その建て直しのため輪王寺宮の名分的権威に頼ろうとしたのであろう。そして輪王寺宮に随行していた2人の幕府元老中の力を利用(注3)することを考えたと思われ、そのことが輪王寺宮の白石招致と公儀府の設置になったと考えている。
公儀府は政治・軍事の両方を含めた機構であり、福島に設置された軍事局が軍事部門であった。
政治組織としての機能であるが、肝心の収入は旧天領(幕府領)の貢租によるとしていたが、実際にその領分を掌握できていたわけではないし、また当時の東北各藩は、明治になっての廃藩置県のような領土権あるいは貢租徴収権の献上は考えてもいなかったわけで、政権樹立に向けての多くの困難な問題を解決する方法を含め、具体的構想やスケジュール的なものは持っていなかったと思われる。
公議府の軍事面、具体的には統帥力であるが、その指導部の構成は前出の幕府元老中と仙台・米沢・会津三藩の出身者だけで占められ、しかもその実効的支配・指揮下にあった兵力と言えば、幕府歩兵隊や桑名藩や彰義隊の残兵などぐらいのものであったと思われる。
その上輪王寺宮の担ぎ出しに熱心だった米沢藩が、7月下旬の新潟港失陥以後急速に戦意を失い降伏に傾いているので、軍事組織として機能したとしても、限られた範囲でかつ短期間であったと思われる。
その他、仙台・米沢両藩が、降伏を決めるに当たり、公議府首脳(元老中板倉勝静・小笠原長行)と事前に協議をしていないことや、公儀府発足後10日もたたない7月25日には、仙台藩を代表して公議府に入っていた、最も強硬な反薩長論者であった仙台藩トップの但木土佐が更迭されていることなどから考えると、奥羽越列藩同盟にしろ公議府にしろ、外部向けに発表したものは立派であるが、政治的にも軍事的にもその実態は形だけのものであったと思わざるを得ない。
この問題の本質にかかわるかどうかは今後の研究に委ねなければならないが、輪王寺宮が持ち込んだと言われる数十万両の資金が(注4)、会津・仙台・米沢の3藩に融通されたということが伝えられている。もしそれが事実であるとすれば、輪王寺宮とそれら3藩との関係について改めて見直すことが必要であろう。
◇ ◇
【注1】輪王寺宮公現法親王
東叡山寛永寺第十五代門跡。伏見宮家の出で第百十九代仁孝天皇の猶子(養子)となった。したがって孝明天皇の義弟に当たるわけで明治天皇の叔父でもある。彰義隊戦争の最中上野を脱出し会津を経て仙台入りした。
反薩長を旗印に結成された奥羽越列藩同盟の盟主に奉戴された。即位し東武皇帝と称したとも伝えられている。
戊辰戦後一時謹慎させられていたが、その後許されて北白川家を継ぎ北白川宮能久親王となった。ドイツ留学後軍人の道を進み、順調に進級を重ね日清戦争では近衛師団長として大陸に渡っている。
日清戦争が終わった後、清国から割譲された台湾で清国兵の反乱があり、その鎮圧のための軍司令官として台湾に派遣された。
台湾駐留中疫病にかかり死亡した。病名はマラリヤともまた当時台湾で流行したペストとも言われている。
東叡山寛永寺の門跡に皇族を据えた理由であるが、初期の徳川幕府関係者が、将来西南外様大名が反幕運動を起こす場合、京都朝廷を担ぐ可能性を予見し、関東朝廷を立てるための布石であったという意見がある。
【注2】奥羽列藩同盟の指導・統制力
奥羽越列藩同盟は、指導力の発揮はもちろん、戦略的にも戦術的にも各藩の利害を調整することができなかった。組織体制と指揮命令系統の明確化ができなかったことによるものである。
当時の藩士たちの意識からすれば、他藩の人間の命令に従うことはまったく考えられないことである。したがって複数の藩により連合軍を組織し運用するとすれば、各藩の重役クラスで編成した、戦略にかかわる全権限を持った戦争指導部を確立し、東北諸藩が自軍に対する指揮命令権をその機関に委譲し、長期的(一年以上)戦略を立案すると同時に、各段階(戦略・戦術)における指揮命令に関する手続きや方法と、それらに関して問題が起きた場合の処理方法について、具体的詳細に協議し、それを第一線まで徹底することが必要であるが、奥羽越列藩同盟の場合それができていなかったのである。
その結果、実際の戦争では白河口は仙台・会津・二本松・棚倉その他、越後口は米沢・会津・庄内・長岡その他、秋田方面は庄内・仙台・盛岡・一関と、すべて連合体制であるが、指揮統制と相互連携のまずさは最後まで改善されなかったし、全体としてまた全期間を通して、戦略的構想に基づいた戦争ができなかったのも組織体制の不備によるものである。
【注3】元老中の力の利用
輪王寺宮が会津入りする前、幕府の元老中である板倉勝静と小笠原長行の二人が会津に入っていた。どちらも幕府末期の人材と言われる人物で、自ら参加した東北戊辰戦争中も敗戦後における行動・進退もそれなりに一貫している。
当時の会津には、最新装備の精鋭である大鳥圭介の率いる幕府歩兵隊、その他桑名藩や彰義隊そして新撰組の残兵など、相当数の幕府の息のかかった部隊が入り込んでいたが、それらはこの二人の影響下にあったと思われる。また今日以上に権威・事大主義がはびこっていた当時としては、元老中の肩書は利用価値があったことは確かであろう。
【注4】輪王寺宮の軍資金
輪王寺宮が数十万両の金を携行していて、招致されて入った会津藩をはじめ仙台藩や米沢藩に軍資金として融通したということが伝えられている。上野寛永寺に相当の金があったのは間違いないであろうが、輪王寺宮が上野寛永寺を退去したのは彰義隊戦争の真っ最中であり、文字どおり倉皇とした状況であったわけで、相当かさ張るであろうこのような大金を携行できたかは疑問である。
もっとも、別の誰かが持ち出して宮に追従してきたとすれば別である。 |
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