■ 〈古文書を旅する〉175 工藤利悦 費用工面が苦しい参勤交代
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■ 舫(もやい)初めの儀
一、舫(もやい)初めの儀は、寛永十八、九年の時分、不作に付き、江戸御供の者礑(はた)と成り兼ね申すに付き、つくない金と申し、地形(じかた・知行所を給与せられた家臣)・現米(年二度、御蔵から米を支給された家臣)・金方(年二度、御蔵から金銭を支給される家臣)・小身者寺社方・諸職人は残らず百石に付き、一両二分ずつの積もり、銘々手前より相出し、御金所に預け、請払い相済み候ところに一両年も過ぎ、いずれも申し候は、とかく行々相互のため毎年相出し請け取り、江戸詰の者首尾よく御奉公しかるべくと相談の上、舫(もやい)と名付け取りやりつかまつり候ところ、山城守(二十八代重直)様御代にもたびたび破れ相止まりおり申し候、その後重信様(二十九代)御代にも三度まで御取り立て遊ばされ候へども破れおり申し候。
急御用にてまかり登り候者これあり候えば、相立ち申すこと成り兼ね、いずれも御貸し金遊ばされ候へども、少々の儀にては成り兼ね、御家中も迷惑つかまつり候に付き、とかく舫これ無く候へば江戸詰めの者勝手つかまつりがたく儀に候間、取り立て申すべく由仰せ出だされ、御中丸にて御家老中・大身御物頭・諸役人へ仰せ渡され候ところ、いずれも申し上げ候は、まかり登る時分の外は舫を出し候得ても存じの通り請け取り申さず、勝手にも迷惑つかまつり候。
中にも、知行取りは手前役金引き置き、百姓方より舫出しなし申し候間、手前舫につかまつりたくと申し上げ、百姓方より右役金百石より一両二分ずつ、銘々請け取り申す条、それ以後、私愚案ながら、破れ申す訳を考え見申し候ところ、前々の舫破れ申し候舫の通りばかりに取り立て申し候儀、もっともなる儀と存じ候。
その上毎年御供つかまつる者は知行所より江戸詰中、古来より百石の知行より江戸詰百日に金一両ずつ取り来り申すに付き、舫金出し申さず、もっともその外の者も登り申す年、下り共に両年は舫金を出し申さず。
もっとも混乱つかまつり、毎年御供つかまつる者は舫金を一切出し申さず故、外間者存じ候は、御次廻り毎年登りの者のためばかりまかりなり候様に相心得、その上入り申しまじき者も加わり候あいだ、たびたび破れ申す儀もっともなる儀と考え申し候に付き、仕様これあるべくと右の訳差し除き取り立て申す事。
(中略)
一、このたび取り立て申す舫の儀、御家中のためと存じ、模様よく破れ申さず候様に取り立て申したくと色々心を付け思案つかまつり見申し候所、存じ入りこれあるに付き、その節の御横目中まで相談申し候えば、御中丸にて仰せ渡され候節、いずれも相成らず候段申し上げ候事に候あいだ、御前にても舫の儀取り立させたくと召し置かせられ儀候あいだ、御家中合点つかまつり、いずれもより願い上げ申し候はばまかりなるべく儀と申され候。
大勢のことに候えば相談の儀つかまつる様これ無く相控え申し候へども、とかく御家中のためつの(募)り申すべく考えつかまつり候あいだ、相止め置き申し候段残念に存じ、なにとぞつかまつる様これあるべく儀と色々思案つかまつり、帳面にても仕立て、宿々へ廻り、舫望みの印判にても取り申し候はばよく御座あるべくと存じ奉り、皆々へ申し候えば、百日金を相止め、古来より役金引き申す積もりに候あいだ、内々差し引き出しなし、舫請け取り申す儀も御次廻り、毎年登り申す者の外、間々者も同事に取り申す積もり、委細心入れ共申し聞き候へども、大勢ゆえ二度三度ずつに廻り、毎日まかり出で候えて一年半余り懸かり、いずれもより印判取り申し候ところ共、私申し上げる儀いかんと遠慮つかまつりまかりあり候ところ、大膳大夫様(重信)御代に、野田理右衛門御番頭仰せ付けられ候に付き、私舫目論見の訳委細に申し候へば、もっともなりと申され候て、理右衛門願い上げ申すべく由請け合い、書き付けをもって延宝八(一六八〇)年正月十一日指し上げ申し書き付けの事。
一、騎馬舫を取り立て申す義は三百石の者わけて困窮つかまつり候中にも、江戸御供一ヶ年勤つかまつり候へば、はたと続き兼ね申し候に付き委細を考え見申し候へば、二百五十石の者・二百石の者江戸詰物入りの訳を考え見申す所、五十石上り若党一人増し申し候へども、本舫四両取り御扶持方も下され候間、少しも物入り見え申さず候。三百石の者は五十石増に若党一人馬一疋、口取二人増、飼料は下されず候あいだ、大豆等も為替つかまつり候へば、毎々よりは直段高直(値)にまかりなり、騎馬御供つかまつる様になり、馬代金も上り、その上道中つかまつりたく御騎馬にて御供つかまつり候に付き、衣裳等も下々まで様子よく、もっとも馬道具等までは乗り懸け下一駄にて仕廻り申す所、三百石の者は人数も増し、馬道具かたがた荷物も増し、懸荷一駄つかまつり、先へ遣し宿取り、幕なども打ちなし、江戸御長屋にても馬飼料道具、その外青引こぬか、草あらぬか等まで調え、大豆かゆを煮させ、すそ湯かたがた真木等も入り増し、御在所とは違い、江戸にては三百石の者は大身並みの様に相見え申し候に付き、御町の者参り候ても見苦しくこれ無き様にと存じ候えば、色々の事どもゆえ、二百五十石よりは一倍の物入り。
ことに毎々二百五十石とり江戸一ヶ年詰め、五十両程にても相仕廻り申す処、ただ今は三百石の者百四十両ばかり、二百五十石の者は七十両程にて仕廻り申す(中略)。
右の金(騎馬舫の資金に余裕が計上されたことを言っている)、騎馬金と名を付ける貸し付け、この金は十両貸し付け、一ヶ年二両二歩ずつ六年に取り上げ申げ候。利合は十両に一ヶ年一両一歩二分七厘二毛附け申す積もり。二十三両に一ヶ月一歩の利金にて借り申す者は勝手よく、その上相済利金も他へ参らず、舫所へ請け取り、惣舫へ相渡し申し候ゆえ、利金存じ相出し候へども、銘々惣舫請け取け金まかりなり候へば、行々舫続き申すためと騎馬舫仕立て申し候。(下略) 「篤焉家訓」
【解説】
舫とは、参勤交代によって江戸と国許・盛岡を往復した藩主にお供として随身した諸士の旅費支弁のために考案された制度。『金田一氏風土考』は「これは諸国共に仕方(仕組みなど)不同には候へども、模合金と申すことこれあり、帷子多左衛門五十石以上諸士、江戸詰入り方・往来入用ともに差し支え申さずように工夫をなし取り立て候云々」と解説。
一方、元禄初年に幕府が諸大名の評伝を録した『土芥冦讎記』によれば、大名総数二百四十二家、うち模合ありとする家は盛岡・八戸(元禄元=一六八八=年創設「八戸藩史料」)の両南部家を含めて百八十二家。有無の記載がない家二十六家。無しとする家は江戸近郊に所在する小藩(家臣は江戸に在住と見える)を中心に三十三家を数える。その中に弘前津軽家も見えるが、同家にはその後茂合制度が創設されている。
盛岡藩における制度の創設は『食貨志』によれば、天和元(一六八一)年十一月。ただし慶安元(一六四八)年に発行の「舫金手形」が伝存(「鬼柳文書」)し、本文および『御舫處諸手控』は制度の考案者帷子多左衛門が、考案の動機から制度が制定されるまでの経緯を書き上げ、享保五(一七二〇)年に藩へ提出した記録。これには寛永十八(一六四一)・九年の不作の年に「つくない金」と称して創設と見える。これを嚆矢となすべきであろう。舫には「本舫」「御騎馬舫」「雑舫」「使者舫」その他があるが、詳細を述べるスペースはない。
しかし、特筆すべきは本文の最後に散見する「騎馬金と名を付け貸付」についてである。現在、住宅資金等の融資を受けるに採用されている「元利金均等分割(毎回の返済は元金+利息額が均等)方式」による制度。
明治以降はイギリスの銀行制度が導入されたため消滅したことは明らかであるが、筆者は寡聞にして盛岡藩以外で採用している事例を知らない。現在の制度は一九六〇年代にアメリカで大型コンピューターが出現したことに伴い開発されたもの。
わが国には六〇年代前半に消費者金融制度とともに移入。当時、コンピューターのメモリーが高額なため大手金融機関が導入、その後、順次地方金融機関へと普及し、一巡したのは七〇年代前半のことであった。
この間、一時的に「アドオン方式」による消費者ローン(アドオン・ローン)というのが席巻した。盛岡藩に限定したものか、その有無は未詳ながら先人の偉業に畏敬の念を禁じ得ない。関連する情報をお持ちの方との情報交換が出来ることを期待したい。 |
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