2007年 8月 2日 (木) 

       

■  〈あのころぼくはバンドマンだった〉62 北島貞紀 音楽を続ける3つの方法

  ■ 1985年

  この年、阪神タイガースは春先から調子がよく、岡田、掛布、バースは史上最強のクリーンアップとしてスポーツ紙を賑(にぎ)わしていた。その勢いは夏になっても衰えず、21年ぶりの優勝に向かって、大阪全体が熱く燃えていた。

  「北ヤン、どうしても行くんかいな」

  「あぁ、もう決めたことだからな」

  ベースのケン坊が、もう何度目かの話をぶり返しながら、ため息をついた。お互いの休みが重なった日曜日、たまには夕方に飲もうと誘ったビヤガーデン。まだ日が沈まない梅田の百貨店の屋上は、すでに満席状態で、ぼくらはその屋上の隅にようやく空席を見つけた。

  「来月初めやろ、もう日がないやんか」

  「今のハコを今月末であがって、けじめをつけんとな」

  「しかし、なんでやの、急に郷里に帰るなんて」

  「いや、たまたまあっちから声がかかったからやけど、前々から考えていたことなんや」

  「もう、戻ってこんのやろ」

  「あぁ、しばらくはね」

  郷里の盛岡から、電話が入ったのは先月末のことだった。クラブを出すというオーナーが、知人を通じて連絡してきたのだ。最初は断ったが、2度、3度と懇願されて行ってみようという気になった。しかしそれは突然のできごとではなく、考えていた選択肢のひとつだった。

  「音楽を続ける方法を考えたんや」

  「ふぅーん?」

  「三つあるんや。ひとつは一流プレーヤーになること。二つ目は、教える側に回ること。三つ目は、自分で自分のステージをつくることや」

  「なるほどなぁ」

  「もう12年もバンドやって、一流が無理なことは分かった。教えることも悪くないが、あくまでも現役でやっていきたい。そうなると、3番目しかない」

  「どないするねん?」

  「まず、店をつくって、昼間は教えて夜はプレーする」

  「なるほどなぁ」

  「ゆくゆくは、プロダクションをつくってバンドの仕出しをやる」

  「さすが、よう考えてる。けど何で大阪でやらへんの」

  「そこや。資金がないんや。大阪やったら、店つくるのにもぎょうさん掛かりそうやんか。田舎やったら、そうでもないやろ」

  (ミュージシャン・株式会社ショップボックス相談役)著者ホームページhttp://www.smilecats.com/

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします