■ 〈あのころぼくはバンドマンだった〉62 北島貞紀 音楽を続ける3つの方法
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■ 1985年
この年、阪神タイガースは春先から調子がよく、岡田、掛布、バースは史上最強のクリーンアップとしてスポーツ紙を賑(にぎ)わしていた。その勢いは夏になっても衰えず、21年ぶりの優勝に向かって、大阪全体が熱く燃えていた。
「北ヤン、どうしても行くんかいな」
「あぁ、もう決めたことだからな」
ベースのケン坊が、もう何度目かの話をぶり返しながら、ため息をついた。お互いの休みが重なった日曜日、たまには夕方に飲もうと誘ったビヤガーデン。まだ日が沈まない梅田の百貨店の屋上は、すでに満席状態で、ぼくらはその屋上の隅にようやく空席を見つけた。
「来月初めやろ、もう日がないやんか」
「今のハコを今月末であがって、けじめをつけんとな」
「しかし、なんでやの、急に郷里に帰るなんて」
「いや、たまたまあっちから声がかかったからやけど、前々から考えていたことなんや」
「もう、戻ってこんのやろ」
「あぁ、しばらくはね」
郷里の盛岡から、電話が入ったのは先月末のことだった。クラブを出すというオーナーが、知人を通じて連絡してきたのだ。最初は断ったが、2度、3度と懇願されて行ってみようという気になった。しかしそれは突然のできごとではなく、考えていた選択肢のひとつだった。
「音楽を続ける方法を考えたんや」
「ふぅーん?」
「三つあるんや。ひとつは一流プレーヤーになること。二つ目は、教える側に回ること。三つ目は、自分で自分のステージをつくることや」
「なるほどなぁ」
「もう12年もバンドやって、一流が無理なことは分かった。教えることも悪くないが、あくまでも現役でやっていきたい。そうなると、3番目しかない」
「どないするねん?」
「まず、店をつくって、昼間は教えて夜はプレーする」
「なるほどなぁ」
「ゆくゆくは、プロダクションをつくってバンドの仕出しをやる」
「さすが、よう考えてる。けど何で大阪でやらへんの」
「そこや。資金がないんや。大阪やったら、店つくるのにもぎょうさん掛かりそうやんか。田舎やったら、そうでもないやろ」
(ミュージシャン・株式会社ショップボックス相談役)著者ホームページhttp://www.smilecats.com/
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