2007年 8月 3日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉178 工藤利悦 今般、日光御本坊の御修伝を仰せ付けられて候

  ■ 日光御手伝御蒙御普請御手都合

  御用番御老中松平右近将監様より御留守居を呼びなされ候に付き、吉田矢左衛門が参上候処、今般日光御本坊の御修覆御手伝を仰せ付けられ候旨、御奉書御渡なされ、右御奉書の写。

  日光本坊御修覆御手伝仰せ付けせれ候条、右の趣き存ぜらるべく候、この節參府におよばず候以上。
     十一月二十七日(宝暦二年)  西尾隠岐守 忠尚
                    松平右近将監武元
                    本多伯耆守 正珍
                    酒井左衛門尉忠寄
                    堀田相模守 正亮

      南部信濃守殿 利雄公ナリ

  この節殿様御在所に付、江戸御留守詰御老中東彦七郎より道中五日振の御飛脚、十二月三日御在所へ到着、同四日御弘め仰せ出ださる

  十二月四日

  一、赤前勝之助・嶋田六郎平・荒木田甚左衛門・太田源太夫、右はこの度御手伝御用仰せ付けらるに就き候、御場所へ急に御人数等遣わされ候儀もこれあり候哉と江戸詰合ばかりにて不足に付、登り仰せ付けられ候旨、御席にて奥瀬内記殿これ仰せ渡たされる。

  一、御徒上野与九郎・一条小十郎・小本惣兵衛・坂本甚平・船越八右衛門・沢田勘兵衛、右同断御用のため御登成され候に付、嶋川幸右衛門預六人登り仰せ付けらる。

  十二月五日

  一、奥瀬内記殿今度日光御本坊御修覆御手伝仰せ付けられ候に付、右御普請惣奉行仰せ付けられ候段これ仰せ知らさる。

  一、御用懸御役人添奉行御用人織笠庄助・山本郷助、御普請方御留守居吉田友右衛門・尾崎富右衛門、御本(元)〆梅内忠右衛門仰せ付けらる。

  一、御割元御目付大矢三右衛門・岩館甚右衛門、御勘定頭糠塚次郎右衛門仰せ付けらる、内記殿仰せ渡たさる。

  一、御目付安宅市郎右衛門、御勘定頭伊藤与治、右は跡御用仰せ付けらる。

  一、御勘定頭梅内忠右衛門、右は御普請御手伝仰せ付けられ候節、前々御元〆の名目御書き上げなされ候に付、今日御手伝御用勤中御元〆の名目にて相勤め申すべく旨、尤右御用中は先格の通り御目付座上に仰せ付けらる。

  一、御目付小向才右衛門、御勘定頭米内勝左衛門、右は明年江戸にて御用懸これ仰せ付けらる。

  一、右何も御役人御前にて仰せ付けらるべく候処、この節御痛所有りなしなされ候に付、御席にて仰せ付けらる。

  十二月七日

  一、赤前勝之助・嶋田六郎平・荒木田甚左衛門・太田源太夫、右明八日立為御登(おのぼせ)成さるに付、御添状勝之助へ御渡成さる。

  一、御徒六人、御同心十五人、同断八日立仰せ付けらる。

  一、御目付所御物書矢口庄左衛門・御徒目付玉山庄太夫、右御用懸仰せ付けらる。三右衛門これ申し渡す。

  十二月十一日

  一、今般御用に付被遣候御同心・御長柄小者、順に構いなく差人にて御遣しなされ候旨仰せ付けられ、その頭へ三右衛門・甚右衛門立合いこれ申し渡す。

  一、日光御奉行大津越中守 右日光御修覆御用懸。

  一、御使番神倉与次右衛門 同断に付御目付。

  右之通仰せ付けられ候条、その意を得られべく候、右御用懸面々へこれ申し渡す。

  十二月十二日、【炊出奉行】西野八左衛門・出淵長右衛門、【御金奉行】台十郎兵衛・内城嘉次右衛門、【御祐筆】中島脇右衛門・乙茂智勝内、【御物書】出石幾右衛門、【御用の間御物書】坂本文四郎、【添奉行御物書】中島磯右衛門・小野兵太夫、【御目付所御物書】矢口庄左衛門・小田代軍左衛門、【御勝手方】沼宮内軍右衛門・雫石佐左衛門、【同所御物書】葛覚左衛門・原只八・佐藤茂市郎、【御老中御給仕】久慈野助、【御使者給仕】豊巻常斉、【御馬医】石井清助、

  【御勘定方】長嶺兵作・宮金之丞、【御徒目付】玉山庄太夫・太田友八・本堂安右衛門、【坊主】三清・利斉・文斉、

  右は柳之間において、内記殿これ仰せ渡たさる。【御目付】池田伊兵衛、【御勘定頭】堀江定右衛門、右は江戸詰合御用懸仰せ付られべく旨、内記殿これ仰せ渡さる。

  十二月十三日、沼宮内軍右衛門 台十郎兵衛、御用金預来る十六日立仰せ付けらる。

  十二月十七日【御者頭】柴内利兵衛、【御医師】本科宮杜桐庵・鍼科山屋養節・外科本堂了甫、【御作事奉行】毛馬内九平治・工藤安兵衛・横浜兵吉、右御用懸被仰付。

  一、今度御用仰せ付けられ候惣御役人、江戸へ為御登り成され候節、支度金等は御定目より四ヶ一引き下さるべく哉、ただし、公用に付き、御供登り同様に下さるべく哉の旨相伺い候ところ、格別の儀に付き、御供登り同様に下され候段仰せ出ださる。【大工棟梁】庄右衛門【同小頭】清八右御用懸仰せ付けらる旨九平治これ申し渡す。

  一、御役人供立 上下四十八人 御老中同二十七人、御用人同二十七人御留守居、同十九人御元〆、同十八人御者頭、同十八人御目付、同十四人御勘定頭、同五人御医師、(中略)右御普請宝暦四(一七五四)年戌九月十日首尾よく相済み候に付き、表御役人は公義より拝領物先例の通りこれあり。御国許は翌五年亥四月二十日惣御役人御中丸にて御酒御吸物これ下さる。同六年の御参勤百日御休息、六月末御出府なり。

  【頭註】

  宝暦三年下野国(栃木県)日光山御本坊御修覆御用仰せ付けられ候御様子これありに付き、秋より御内々御用意これあり、同四年早春より御普請御取り付け、同年七月中相済み候に付き、また新規に御本坊の御道場(古来より無し、このたび初めて御建立なり)三間四方に御造り遊ばされ候旨、加御普請仰せ付けられ、右両様共に九月上旬首尾よく出来るなり、右九月十七日は毎年御祭礼これある故、御急ぎにて御道場出来る。右両普請出入り方八百両余なり(下略)
  『篤焉家訓』

 【解説】

  この記録は江戸幕府における大名役の一つ。各地の土木普請を行う時に、幕府は諸大名にその助役を賦課している。

  南部家が助役を命ぜられた工事には慶長十二(一六〇七)年江戸城修築、同十七(一六一二)年・明和七(一七七〇)年仙洞御所、慶長十九(一六一四)年越後高田城経営、寛永五(一六二八)年・同十三年・正保二(一六四五)年江戸城堀浚普請、宝永四(一七〇七)年江戸城代官町普請、元文元(一六二四)年遠州大井川普請等手伝いがあり、外に金銭のみ供出した享保十(一七二五)年下野国鬼怒川普請や同十五年虎瀬川普請、その他普請がある。

  本文は右一連の普請手伝いの一つである「日光本坊修理手伝」に関する記録の一端である。

  今回の助役は藩財政が疲弊する中でのこと。追加工事の出費まであり、総費用は「実は七万両に過るといえども、世間の外聞を恥じて四万両という」、さらに「先公辛うじて儲貯する処の軍用金一時に亡散した(『食貨志』)とある。

  加えて「日光は湿気至て深き場所にて是か為に病人多く出来死去夥(おびだた)し」(『飢饉考』)と、さんたんたる情況をも伝えている。

  このため、五十石以上の諸士より禄五分の一借り上げでは賄いきれず、領内の富豪に借り上げを命じて竣工に漕ぎ着けている。「神社仏閣の御手伝今度初めてなり」とも伝える(『飢饉考』)。

  御城下市中の分限の者百十六人へ金高四千八百両、小商人四十六人へは金高二百六両を割り付け、新町いつゝや善助の二百五十両、石町兵右衛の百六十両をはじめ、一、同月二十九日御町奉行月番簗田平右衛門宅において惣町かち町覚兵衛や同紺屋伝右衛門等の三両まで百六十二人が上納とも見える(『飢饉考』)。

  これらを総括して『篤焉家訓』二十七之巻は
一、金五千両前川善兵衛才覚金
一、同七千両銅山引当商人共才覚金、右は江戸御屋敷へ納め候はず
一、同五千両百前二両金
一、同千五百両余諸士分限金
一、四千七百両余盛岡町分限金
一、同二百両右同断
一、同八千四百三十両余在々分限金
一、同四千四百三十両余田名部十一ヶ山運上金之内
一、同三千両程五十石以上所務五ヶ一御借上金
一、同千五百四十一両三歩 諸運上金之内
一、同五百両花巻御城銭之内

  戌十一月晦日改めまで御入方六万二千四百八両余、追って仰せ付けられ候。御内道場御入方ども。

  右の外、御普請御用相済みまで惣入れ方七万両程(入金推移は割愛)と記録する。

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします