■ 〈賢治の置土産〉16 岡澤敏男 打てば響く応酬
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■打てば響く応酬(おうしゅう)
嘉内が下宿した茅町鎌田方の離れは、あたかも若き4人衆の梁山泊だったのでしょう。大正6年7月7日の夜、この梁山泊で1日発行の『アザリア』第1号を合評する小集会が開かれました。栗の花の香りが漂う夜だったようです。
散会した深夜、雫石の春木場まで夜行することになった4人衆は、まさに水滸伝(すいこでん)の豪傑らしい発案です。嘉内はこの夜行を歌稿ノート『我は独り』(7月7日)に〈馬鹿旅行〉としたため、「大正6年7月8日(午)前零時十五分より/同后二時十分までの間/同行者三人/小菅健吉/宮沢賢治/河本義行」と記し、4人衆を〈馬鹿者〉と称しました。
〈馬鹿者〉とは反世俗的自負心を指すものでしょう。小菅は『アザリア』第2号に「不良少年と言ひ合い夜すがら歩みけるつかれて休む不良少年」と詠み、これまた〈不良少年〉と自負しているのです。
河本は「宮沢氏其他と十二時出発、山を歩みたり、春木場に至る」と端書きして「山の緑に終夜歩みし夜があくる」と句作し夜行を自賛しています。
嘉内は『アザリア』には発表しなかったが、ノート『我は独り』に短歌60首を詠み自ら〈馬鹿旅行〉賛をしているのです。
賢治も3年後の短篇「秋田街道」にて夜行の顛末(てんまつ)を散文詩風にスケッチし、〈馬鹿旅行〉の客気を追懐しました。このように、大正7年深夜の〈馬鹿旅行〉とは、4人衆にとって「われらが青春のマリアンヌ」だったのです。
『アザリア』の活動は大正7年6月、第6号の発行をもって終了しましたから、わずか12ケ月ほどの寿命にすぎなかったが、『アザリア』は全国各地から盛岡高農に集まった青年達の「青春の激しい自己表出欲」のはけ口だったし、嘉内と賢治との友情の絆を強くむすぶステージとして重要な役割を担っていたのです。
賢治は『アザリア』第1号に「旅人のはなしから」という短篇(賢治全集「生前発表初期断章」)を掲載しました。このなかで注目されるのは恋愛論と友人論です。「この多感な旅人は旅の間に沢山の恋をしました。女をも男をも、あるときは木を恋したり、何としたわけ合やら指導標の処へ行って恭しく帽子を取ったり」と、多感な青年の恋が異性に限らず同性をも対象にしたり、さらに木や指導標にまで恋をするのです。
また旅の途中で多くの友人を得るが、いつの間にか離れてしまう。そして友人と二度と会えないのは宿命的な「二つの抛(ほう)物線と言ふものでしょう」と述べているのです。この賢治の例え話について、すかさず嘉内が『アザリア』第4号に断章「打てば響く」をもって応酬しました。
断章の冒頭に「おんみしかするはかれより離るゝことにあらずや」と指摘し、「二つの抛物線」論に異議を唱え、彼と我を離れさせる絶対的な原理(抛物線)は無い。「鳴呼遂に一人の友を我は無し」なんて言うな。そんな「憐れな詞」「悲しき言葉」をすてて「友よまことの恋人よ倚り来よ。われと思ふさま泣かうではないか。地が固く氷って身を切る様な風の吹き荒ぶ夜なら、北海のはなれ島、月下に二人よりそひて心ゆくまでに泣かう」と賢治に呼び掛けました。
■保阪嘉内の断章「打てば響く」
(『アザリア』第4号より抜粋)
友よ、梅川忠兵衛のうるはしい物語を御存知だらう。小春治兵衛のはなしも知ってるだらう。ロメオとジュリェット。天文学者レオ・ニコラヰッチと星との話を知って御いでだらう。空と土との恋物語。また旅人と里程標。ある若者と材木との恋物語。
恋人よ、さうだ今夜はゆっくり語り明さう、おまへまさか私がいたづらにこんな事を言ふのでない事を御存知だらうね。
恋人よ、私はほんとうに命懸けで言ってゐるのだ。勿論おまへと二人差し向きだもの何の遠慮をしやう。またおまへも心から私の心を汲んでくれるだろうね。恋人よ、私はおまへが時々私の言う事をまちがへて取って、すねるのを見て悲観するよ。そりや体が別れて居るから二人の呼吸の度数から脈膊の数まで同じやうな事はないだらう。しかし恋人よ。もう言ふまい、おんみはげに我恋人なんだ。なんにもみんな今は解ったらう。もうそんな水臭い事は止さうね。
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