2007年 8月 7日 (火) 

       

■  〈続・岩手の先人とカナダ〉4 菊池孝育 杉村濬

 杉村は本省の移民政策立案の参考に供しようと、前述の報告書に意見書を付した。「ヴァンクーヴァル領事杉村濬報告/加奈多西部地方ニ移民セントスルニ付鄙見大要」である。日付は明治24年1月25日となっている、報告書発送のおよそ1カ月前にまとめたものである。

  意見書の冒頭において、杉村は「加奈多西部地方」を定義して、「英閣龍比亞州(筆者注、ブリチッシュコロンビヤとのルビあり)及ヒ北西各テルトリー(テリトリー)ヲ指セリ」と記している。続けて「英閣州(BC州)ハ太平洋沿岸ニ横リタル大州ニシテ其面積ハ凡ソ我日本ノ二倍半ヲ有セリ」とほぼ正確にとらえている。一方「北西各テルトリー」については、現在のユーコン準州を含むノースウエスト準州を指すと考えられるが、準州の範囲、州境の記述に齟齬が見受けられる。

  次に地勢及び気象について説明している。「英閣州」は山岳地帯が多く農耕や牧畜に適する土地が少ないけれども、鉱産、水産、森林資源に富んでいること、気候は冬季でも温和であり、日本人の居住に適している、とまとめている。

  片や「北西テルトリー」は、一帯が平原広野で、一見農耕牧畜に適しているようであるが、冬季にはマイナス20度以上になり、「冱寒烈ク」日本人の居住には不適当で、未だ一人の日本人も居住していない、としている。

  実際以後の日本人移民は、BC州へと流入して鉱夫、森林伐採夫や製材工、漁夫、農夫として生計を営むことになる。県人の多くも杉村意見書のとおり、気候温暖なバンクーバー近郊で漁業、製材業、オカナガン地方で農業等に従事することになる。

  当時の人口については、「英閣州」には15万人ほど、「北西各テルトリー」には約3万人居住、としている。この数は実際よりもかなり多い。1891(明治24)年のカナダ国勢調査によれば、9万8173人にすぎない。杉村意見書はゴールドラッシュ等による一時滞在者を加えて推定したものであろうか。杉村も「人口ハ本年丁度調査ノ期ニ當ルモ未タ之ヲ終ラザルヲ以テ其數ヲ知ルニ由ナシト雖トモ」と断っている。BC州の人口が15万人を超えるのは1901(明治34)年の調査時点である。両準州の人口をほぼ3万人とした推定は事実に近い。

  BC州、両準州とも慢性的な人手不足であった。外国からの移民を望んでいたのである。しかし東洋人は歓迎されなかったのである。杉村はその間の実情について「其望ム所ハ白人ノ移住ニシテ東洋人種殊ニ支那人ノ移住ヲハ好マサルモノヽ如シ」と述べている。

  当時の「支那人」在留者の実態はどのようなものであったか。意見書の大要は次の通りである。

  「英閣州」には3千人から5千人の「支那人」が居住しており、「支那人ノ加奈多ヘ上陸スル者ハ毎人五十弗ノ税ヲ課セラレ且ツ英閣州ノ法律ニテハ彼等ハ年々若干(十四歳已上毎年十弗)ノ特別頭税ヲ拂ハセラレ加之土地ノ所有ト市ノ中央ニ開店スルヲ差止メラレ所謂支那人町ナルモノ別ニアリ」というように、「支那人」は厳しい制限を加えられ、肩を寄せ合うように生活していた。

  そのことは杉村の目に「彼等ハ能ク團結シテ協會ノ如キモノヲ設ケ先進者ハ懇切ニ後進者ヲ世話シ後進者亦其指導ニ従テ孜々トシテ勉強スル」ように映った。差別や排斥に、団結と相互扶助で対処していたのである。

  諸制限の中には「各公共事業ニハ大抵支那人ヲ使用スルヲ得ス」などの条項もあった。「支那人」にとって不利不便極まりない差別的環境のなかで「彼等ハ能ク之ニ打チ勝チテ生業ヲ立テ中ニハ廣大ナル店舗ヲ有シ盛ニ商賣スルモノ幾十軒ト云ウ程アル可シ」という実態は、杉村には驚きであった。これは「白人ノ堪ユル能ハザル苦役ヲ執リ…汚穢ノ事業ニ忍ビ…他ノ人種ノ爲シ能ハザル程ノ節倹」に起因するものと看たのである。総じて杉村の「支那人」観は高く好意的評価に満ちていた。

  多くのカナダ人は、ヨーロッパ系移民を含めて、日本人と「支那人」とを同一視した。風貌、外見、風俗習慣等識別できなかったのである。従って「支那人」に対する差別は、遠からず日本人にも及ぶことを杉村は予測していた。

  (原則として隔週火曜日掲載)

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