■ 〈古文書を旅する〉179 工藤利悦 盛岡八幡宮祭礼にぎやかなり
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■ 盛岡新八幡宮の事
重信公御代延宝七(一六七九)年己未 月御造立、御奉行上山半右衛門広昌、御神事八月十五日なり。
○八幡宮御社、元は早池峰山妙泉寺盛岡の宿寺なり。社造立の節岩手郡加賀野山に所替えす。八幡拝殿脇の松は妙泉寺庭前の松樹なり。その頃大柳あり。古木なり。これを寿命柳(『盛岡砂子』は桜に作る)と称す。春は見物数多あり。その後枯れてなし。
○新八幡御祭礼流鏑馬、延宝八庚申年より射手始まる。近内長左衛門(七十石・射手)・沢田勘左衛門(六十石・同)・戸来六右衛門(百石・同)仰せ付けられ、天和元(一六八一)年より御馬責(射手)仰せ付けらる。
○信恩公御代元禄十六(一七〇三)癸未年より公義御祭礼に相成り、大樹(註 将軍の別称)御穢に御構いなく御神事これあり仰せ出ださる(中略)。
奥南盛風記に云う。延宝年中三戸櫛引より八幡宮御勧請なされ、年々祭礼を取り行れける。地下(ちげ)新八幡と称す。元禄十六年公義御祭礼に准じて御領主の汚穢に構ひなく、毎年の祭礼怠りなかりける。宝永六年より町々出しねり物を出す。
○按ずるに元禄十五年重信公・行信公卒去、太守ゆへなるべし。
○盛風記は、今の八幡山は妙泉寺境内なりしを八幡宮此の所へ御勧請の時、妙泉寺は大日山へ引けるとなり。
○公辺之山王・神田の振り合いにて祭礼はしかるべきか、(中略)按ずるに今の八幡山は利直公の御代まで中野館の外曲輪なり。関ヶ原御陳の後、居城の外は曲輪舘等、追々崩すべき旨欽命あり。大坂御陣以来、なおなお舘等は崩し捨てらる。その上に重信公御代より櫛引八幡社は八戸領直房公の御持分となる。よって新八幡を勧請ありしなるべし。
○奥南餘録云う。盛岡新八幡、延宝七年御建立也。神事八月十五日本堂・新羅堂・御輿堂・舞舞台逢拝殿、先に御建立奉行上山半右衛門広昌なり。八月一日より流鏑馬稽古、納物左の通り。
○御正体大丸鏡、行信公奥様より御寄進(毛利甲斐守侯之姉君なり)○御具足一領(紫縅御甲共)○御弓二張(一寸二分)○御矢二十六本○御太刀一腰(長四尺五寸、新身播磨守国次)○御長刀一振(関相模守盛長、大身なり)、右之通御奉納なされる。
八月一日より流鏑馬役人宮籠り。十四日巳の刻、御城内より神輿出御、十六日未の刻御城内え還御、行列左の通り。
○無量院常正院、一丁ばかり先に山伏出立にて通る。○先払足軽(羽折袴)○町奉行上下高橋惣左衛門(二本道具)○榊(四人持・白丁)○鉾八(持人・一人並)○足軽(羽折袴)○幡八(持人・一人並)○足軽(羽折袴)○獅子頭二○太鼓(四人持・左右手平かねまで)○笛一人○御甲箱○御具足箱○御長刀○御弓二張○御矢立(白丁)○御太刀(白丁)○御神輿(左右に山伏)貝吹(御輿舁八人・白丁)○神主金剛坊・乗馬○足軽○射手奉行(近内長左衛門・七十石、沢田勘左衛門・六十石、戸来六右衛門・百石、此三人素袍烏帽子)○射手三人(川村久七、似鳥五右衛門、関半助、素袍烏帽子)○射手惣奉行佐藤甚之丞(持鑓、挟箱、素袍烏帽子)○押者頭(二本道具)○同心三十人 岡本孫左衛門上下。
十四日重信公御参詣、御供楢山七左衛門・下田権左衛門
十五日午之刻流鏑馬 行信公御代参桜庭十郎右衛門、式部公奥方より御桟敷仰せ付けられ御覧、八幡前土手のうえに八幡丁の者、桟敷を懸け、四百文に貸す。内に入り候者一人に付き二十銅ずつこれ出す。
○邑老曰く、今の八幡丁延宝の頃までは皆田畑なり。八幡社御建立の節より市中になると云う。ゆえに八幡丁と唱う。八幡丁の内多葉粉町へ元禄年中神明の社御移し後、神明丁と唱る也。八幡社石鳥居、宝暦十三(一七六三)年未 月新たに相建て、石は葺手町裏斗米部(とこべ)より出る。十カ月にして八月成就す。こしらえ方根石等まで注文。東都(江戸を云う)より来る。山王石鳥居に擬らえ惣入り方六百貫文余。御作事奉行大巻勇助(六月迄勤)、六月よりは上関作兵衛これ勤める。石工棟梁長兵衛、大工棟梁木村杢右衛門。
○享和三(一八〇三)年亥八月、利敬公御服中に付き、御祭礼九月二十一日より二十三日まで(二十二日流鏑馬)これあり。神明社・春日社一所に御祭礼、至ってにぎやかなり。この節御内意に付き、町々より丁験のほか、思いつきの仁和賀(にわか)相出す。もっとも衣装は縮緬以上、織物共に御免にて、勝手次第これ着用す(これより後、年々御祭礼子踊り等、衣装銘々綺麗を飾り、はなはだしく驕ごる)◇@旗、◇A(人形)司馬温公(子供、引車)◇B諌鼓ばこ◇C汐汲み踊り子九人◇D唐旗弐本(魚巻・子供九人、囃し方・笛・笙・ひちりき・火炎太鼓)◇E馬験まとい(持人一人)◇袰武者十人、陣太鼓(打人一人)、将机持(子供十一人)、花篭壱、旗十本(持人十五人)◇F吉原すずめ(踊り子四人、はやし方添)◇G国性耶唐旗二本(持人二人)、唐子(一人)、唐鉾一本(唐人持一人)、鉄炮二丁(持人二人)、半弓二張(持人二人)、鑓二本(持人二人)、虎(一疋)、唐人笛(二人)、鐘打(一人)、太鼓打(二人)、和藤内(一人)、内下ケほろ二本◇H曲ろく馬三疋(馬士、うた)◇I吉野桜に桧扇、牡丹花篭(屋台持)◇J踊子六人(囃方添)◇K万燈(子供引車、囃方子供添)◇せつたい
右の通仁和賀(附祭と唱)出候所、仕懸けもの高く、内丸御門内へ入り候事成り難く、中ノ橋両向へ詰め居り、神輿御通行の節、御行列の跡に列す。御宮より引き取り早く勝手次第諸丁へ相廻る。御内々に御差図なり。 (『篤焉家訓』)
【解説】
本文は盛岡八幡宮の草創、初期における行事の様子などを伝える記録。行列の中にどのような踊りか吉原すずめなどが見える。唐子(一人)、唐鉾一本(唐人持一人)や虎(一疋)が見えるのも面白い。虎は虎舞いの虎であろうか。ほかに、気になることを一・二書き留めておく。
本文に八幡宮の祭礼は「元禄十六年に公義祭礼となる」とある。一方、「公義に准じて」と記述するのは『奥南盛風記』。「江戸神田明神の祭礼等に対する幕府の対応に准じた」ものと記述する。真偽不明ながら『奥南盛風記』説に信ぴょう性の高いことを感ずる。
そもそも櫛引八幡宮は古来南部家の氏神。八戸領内にあって境内地は盛岡領の飛び地であった。だが盛岡八幡宮創建の理由に触れて、「重信公御代より櫛引八幡社は八戸領直房公の御持分となる」とあるのは誤伝でなかろうか。もし史実ならば盛岡領の飛び地となった時期に興味を覚える。
関連して岩手山・姫神山などと共に、盛岡城四鎮山の一山に数える新山(別当寺新山寺、後永福寺)も八戸領志和郡内にあり、盛岡領の飛び地であった。盛岡城の病門(南西)に位置する祈願所だった所以による。聖地は八戸藩に渡していないことにおいて基軸を一にしている。
実は、盛岡八幡宮の歴史は少なくとも慶長年間に盛岡城の築城時まで遡る。『祐清私記』は、現在桜山神社のシンボルとなっている烏帽子岩付近に八幡の小社があったと伝える。後年この社を城内八幡宮と称していた。
寛永十一年に南部家鬼門の祈願所となった永福寺が三戸から盛岡に移転された時に、同寺境内にあった櫛引八幡宮の摂社、雷堂及び新羅堂が城内八幡宮境内に遷座。
延宝七年、現境内地へ領内万民のために御旅所として創建せられ、新八幡とも盛岡領鎮護の八幡宮とも尊称せられた。この時三戸から新たに雷堂等が勧請(現在も旧社地に同名堂宇あり)せられた。
善男善女の信仰を集めて現在に至っているが、明治十七年の大火に罹災した後、明治末年の様子を山本縁翁増補の『盛岡砂子』は「都て社内昔の有り様更になし、末社(社名割愛)残らず焼失して今は樹木もなく(中略)昔の俤少しもなし」とし、明治二十一年に斗ヶ沢氏によって石鳥居が奉納された時のことを結構なる事なりと結んでいる。
かつてこの地は、岳の妙泉寺宿寺の跡地。同寺は盛岡城四鎮山の一、早池峯山の別当寺で生門(南東)鎮護の祈願所である。盛岡領惣鎮守の社地として選定された理由であろう。 |
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