■ 〈続・岩手人の見た戊辰戦争〉32 和井内和夫 東北戦争の戦後処理
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■東北戦争の戦後処理
戊辰戦争で勝利した薩長藩閥政府は、当然のことであるが、味方した諸藩に対する論功行賞と、敵対した諸藩に対する懲罰的処分を行った。
■東北で加増された藩
久保田藩は加増2万石、戦死者450人。領内全域が戦場となり、いくつかの城(砦・館)や町場・村落が焼失し、人的にも経済的にも大きな被害をこうむった。またほぼ半年間にわたり、数千の西軍が領内に駐留・参戦したことによる経済的負担も大きかった。
弘前藩は加増2万石、戦死者20数人。この戦死者は東北戊辰戦争の最終期にあった、盛岡藩領野辺地への侵攻戦のものであるが、この戦いは最終的には私戦とされた。
したがってこれだけでは、久保田藩に比較して厚遇され過ぎているように思われるが、弘前藩は戊辰戦争の最後の戦いである函館における榎本軍との戦争にも派兵し、60数人の戦死者を出しており、また函館戦争当時、弘前領が薩長藩閥政府函館派遣軍の後方補給基地としての役割を果しているので、その貢献が評価されたのであろう。
新庄藩は加増1万5千石、本庄藩は加増1万石
■東北で禄を減じられた藩
▽仙台藩 減禄34万5千石(減率45%)▽会津藩 減禄25万石(減率89%)旧盛岡藩領下北地方に移封▽盛岡藩 減禄7万石(減率35%)旧仙台藩領白石に移封、その後盛岡復帰▽二本松藩 減禄5万700石(減率53%)▽庄内藩 減禄4万7千石(減率28%)▽米沢藩 減禄4万石(減率22%)▽棚倉藩 減禄4万石(減率40%)
これを見ると、薩長藩閥政府が自分たちの敵に回った東北諸藩をどう見ていたかが分かる。重さ(彼らから見た罪)の順序で、1位会津藩、2位二本松藩、3位仙台藩はずまずとして(仙台藩は飛び抜けた大藩であるので率としては低くなっている)、九条鎮撫総督の東北入り当初東北独自路線の先頭に立ち、仙台藩とともに奥羽越列藩同盟結成の中心的役割を果たした米沢藩が、減率では最低であることについては考えさせられる。
言ってみれば減禄は領土割譲である。勝者薩長藩閥政府はこれだけで84万石余を確保している。その一方味方した藩に与えられた加増いわゆる賞典禄であるが、大口は久保田藩・弘前藩だけで、その他の小藩に対するものは合わせても3万石程度であるので、差し引き80万石程度が実入りとなったわけである。
戦いに敗れた東北諸藩は、戦後処理に伴う諸経費である、西国諸藩兵で編成された占領軍の派遣・駐在旅費や、そのほかの占領経費などはこれとは別に負担させられているので、この80万石は正味の取り分である。
戦費に当てた分もあろうが、これだけでも薩長藩閥政府にとって東北戦争は大きな意義があったであろう。
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