■ 〈水分村にやってきた満蒙開拓志願少年〉上 64年ぶりの再会
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64年ぶりに再会した元満蒙開拓青少年義勇軍の笠原邦雄さん(右)と宮澤慶治さん(左)。中央は開拓農民の鷹木孝三さん
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1943年(昭和18年)8月、農耕訓練で茨城県から少年たちが旧水分村(現紫波町水分地区)の開拓集落に滞在した。14〜15歳の年齢だった。少年たちは満蒙(現在の中国東北部)開拓を志願。茨城県の内原訓練所で入植のための訓練中で、水分村を訪れたのも内地訓練の一環だった。長野県在住の笠原邦雄さん(79)と宮澤慶治さん(78)もその中にいた。あのときから64年。世話をしてもらった当時の住民に会いたいという一心から、手を尽くして関係者を探した。そうして鷹木孝三さん(83)が現在も開拓集落に住んでいることを突き止めた。3人は今年、涙の対面をした。(荒川聡記者)
内原訓練所は国策で満蒙開拓を希望する少年たちに入植技術を教え込んだ鍛錬施設。笠原さんが入所した当時は、1万人以上の少年たちが47中隊(1中隊は230〜250人)に編成されて訓練を受けていた。
同年代の同郷少年243人とともに、笠原さんと宮澤さんは軍事教練、農事訓練、満州での開拓に向けた予備知識の学習など、厳しい規律の集団生活に明け暮れていた。
実習で開拓の手伝いをしたのは水分村のほか、茨城県水戸市、福島県の農村地帯。中隊を開拓地の規模に合わせて分け、8月1日から1カ月間にわたって開墾を実際に体験することになった。水分村で滞在したのは矢巾町境にある田沢部落だった。16軒の入植者たちが松の根や石と格闘の日々を送っていた。
大家族の時代だった。しかも入植間もない時期に大勢の少年を受け入れるため、一人暮らしの人の家を探し、数人ずつ分宿した。鷹木孝三さんは当時19歳。兄が出征し、兄嫁が子供を連れて実家に帰っていたことから一人暮らしだった。
「部屋は6畳と8畳の2部屋あり、わたしは6畳の部屋で寝起きをしていたので空いていた8畳間を貸しました」と鷹木さん。一人暮らしにとっては広く思われた8畳間だったが、6人の少年が入ると、すし詰め状態になった。
少年と鷹木さんの7人の生活はどのようなものだったのか。64年も前、1カ月程度の期間、高齢の鷹木さんにとっては記憶をよみがえらせることは非常に困難な作業だった。
「相手は少年でしたから酒を飲みながら語り明かすことはできない。日記に付けていた訳でもない」と鷹木さん。糸をたぐるように記憶をたどっていくうち、次第に鮮明な記憶としてよみがえってきた。
少年たちにとっても地域の婦人会が出してくれた手料理、住民たちから農作業の基本を教えられながら開墾に汗を流したことは生涯忘れられない思い出となった。
(つづく) |
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