2007年 8月 16日 (木)
■ 〈水分村にやってきた満蒙開拓志願少年〉中 寝食共にし開墾の日々
かまで下草刈りをする前に撮影した写真。後方に見える木は夜泣松(よなきまつ)と呼ばれていた(紫波町水分地区)
紫波町水分地区への滞在期間中の生活はどのようなものだったのか。鷹木孝三さんによると、作業前に朝礼をしたのは集落から150メートルほど上がったところにある山の神神社の石碑前という。午前5時半の起床ラッパが鳴ると、駆け足で山の神神社に向かった。そこで君が代を歌い、国旗を揚げて朝礼。点呼を取って解散した。朝食が終わると、当日作業する場所の割り当てがあった。
「内原訓練所では徹底した教育を受けていたんだということが、それを見て分かった。後に修了した方に聞くと軍隊と同じだったと話していた」と鷹木さん。
開墾をしたのは現在の西部開拓道の道路沿い。水分神社から矢巾町境付近までの3キロほどの区間。集落は水分神社寄りに位置し、集落前の斜面を住宅上、矢巾町境付近の斜面を駕籠立場方面、水分神社前と地名を付け、3カ所で開墾を手伝った。
人間の力だけが頼り。雨の日も風の日も木の根や草の根との戦いだった。急斜面のため表土が流出しやすく、石だらけのやせた土地だった。石が非常に多く開墾は遅れた。「多石蔵」(おおいしくら)と呼ばれ、下草刈りをすれば刃が欠け、のこぎりのようになったという。
少年たちが宿泊したところと同じ場所に現在も家が残っている(紫波町水分地区)
満蒙開拓の志願少年たちはここで、入植者たちと寝食を共にした。一緒に石をどけ、松の切り株を抜くなど重労働を体験した。ここでした開墾の体験は80歳近くなった今も決して忘れられない記憶となって刻まれているという。
笠原邦雄さんは、ここで8月いっぱい手伝い茨城県に戻った。そして9月下旬に満州へ渡った。開墾したのは現在の黒竜江省黒河市内の北安(ペイアン)市。同省の北限の地でロシア国境に近い。日本のように起伏はなく、どこまでも続く平原。夏は暑く、冬はマイナス30度の地面も凍る厳しい寒さだった。
農作業に牛や馬は使わない。ただひたすらくわを振り下ろす毎日。3年間の訓練期間を終え、義勇隊開拓団として満州の地で開拓をしようとした矢先の45年8月9日、旧ソ連軍が参戦。民間人を守るはずの軍隊は既に出払った後だった。
笠原さんは「男子は徴兵され、残された婦女子だけの集落は集団自決。夜を徹しての避難逃行は言語に絶するものがあった。われわれの訓練所もソ連軍に武装解除を受け、9月24日に持てるだけの食糧(主に大豆)を持ち、北安の飛行場に集結を命じられた」と振り返る。運良く少年であることが相手に分かり、大半がシベリア送りを免れた。
潘陽(遼寧省)の難民収容所に入れられて、病気で幾人もの少年が病死した。吉林省の四平市に送られた少年は石炭掘りの強制労働と栄養失調が原因で亡くなった。
笠原さんが所属した中隊では、243人の隊員のうち約2割の47人が亡くなり満州の土となった。「凍土と化した雪原に埋葬できるはずもなく、くぼ地などに山積みされ、線香の1本も立てられず葬られた。友たちがふびんでならない」と語る。
(つづく)
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