2007年 8月 17日 (金)
■ 〈水分村にやってきた満蒙開拓志願少年〉下 よみがえる記憶
現在の開拓集落(紫波町水分)
満州で辛酸をなめた笠原邦雄さん、宮澤慶治さんたちは終戦の4カ月後、故郷の長野県に戻った。現在は農業をしている。笠原さんはリンゴとクリを栽培、宮澤さんは野沢菜を栽培しているという。
戦後半世紀以上が経過。これまでに満州の訓練所跡地や収容された地を訪ね、亡くなった友人たちの慰霊の旅を終えた。そして少年時代の旧水分村を訪ねたい気持ちになった。80歳を間近にし、これ以上年を取れば遠出をすることは難しいと思い立った。鷹木孝三さんは当時を知る唯一の生き証人になっていた。
水分村も町村合併しただろうと思った。新しい名前が分からなかったが、紫波町役場に問い合わせて鷹木さんを探し当てた。長野県の人にとって鷹木という名字は珍しく、孝三とは良い名前だと記憶に深く残っていた。
再会の日は5月19日。2時間ほど旧交を温め、昔住んでいた建物や開墾した農地を訪ね歩いた。
集落前には立派な道路が通り、住宅の数も増え、一方で開拓した農地は森に戻りつつあった。「60年余の歳月が流れたが、当時のさまざまな思い出がよみがえって懐かしい。当時の住宅も目にして感激しました」と笠原さん。64年前にわずか1カ月間滞在した開拓地、開拓集落を生まれ育った土地のように懐かしんだ。
かつて開拓した農地は現在草地。森林に戻りつつある農地もある(紫波町水分)
鷹木さんは「わずかな期間でしたから、わたしはすっかり忘れていました。当時、満州に行って開墾すると聞かされ、よくこの子供たちが行くものだと思いました。今思えば話をしていればという気になるが、そういうことはなかった。わたしにできる世話をしただけだが、笠原さんははっきり覚えていてくれた」と感激の涙を流した。
戦前から進められた満蒙開拓は終戦後、人も土地も軍隊に見放され、開拓者は築き上げた財産をすべて失った。祖国に帰れず中国残留孤児となり、問題は今も続いている。現地召集された人はシベリアで抑留され、多くが寒さと餓えで亡くなった。
笠原さんは「当時14歳のわたしは八紘一宇、王道楽土、五族協和と聞かされ、なんと素晴らしいことだろうと思った。侵略的行為であったことは全く知らず、満蒙開拓青少年義勇軍に応募した」と当時の心境を語る。
鷹木さんは「当時のわたしは19歳。子供たちは14歳。年齢は近いが10代で5歳の差はかなり離れていたと感じたはず。わたしもできる限りの世話をし、ここで学んだことを満州で実施しなさいと何度か話した記憶があります」と思い起こす。
(荒川聡記者、終わり)
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