2007年 8月 17日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉180 工藤利悦 新庄山に鹿嶋大明神あり

  ■ 新庄村鹿島社のこと

  神体は甲州より三上氏守護たてまつり、御当地へ来たると云々。今に至りて毎年十一月三上家御城内御社へ参詣あり。

  鹿嶋大明神は、重直公御代寛文二壬寅年四月四日御祭礼始まる。別当無量院、往昔利直公より社領五十石御寄付、御墨印これ所持す。その後何故か差し上げる。また後に現米二十五駄を下し置かせられ(元禄十七年二月二十五駄賜う)、御祭礼の節神楽御城内より鹿嶋山へ渡御、おびただしき御神事にて惣奉行三上多兵衛なり。於ふき様(重直公御女・寛文元年生)御繁栄祈願のため御祭礼あり。姫君様御卒去の後ち止む(寛文七年二月十八日)、御祭礼の砌二十丁の町へ御米百駄宛下さると云。

  重直公あまたの子を失うて後、姫君誕生す。これによって鹿嶋大明神を祈り、神託万歳天公を寿す。しかるに、これわきまえず寛文四年二月ついに逝去す。重直公大いに怒りて神宮を破す云々。この説いまだ信じえず。姫君の逝去は重直公御卒去の後寛文七年二月なり。篤焉按ずるに右説いまだ信じえず。(中略)寛文年中鹿嶋宮御祭礼の器物、当時御新丸十間御蔵ならびに彦御蔵に今なお存せり。金のバレン等はすべて金箔の類。古物にて当世の品に比すべきやうなしと云う。その比の御繁栄考えべきなり。また云う、御祭礼の節二十丁町へ御米下されたるは、一町へ百駄下されたるなるべし、その比の価は格別の事にあらざるものなり、ただ二十丁へ二千駄の大数を思いやるべしと云々。
 
  一、寛文二年四月四日、南部盛岡新庄村大明神御祭礼行列

  ◎警固御足軽二行に二人ずつ▽警固高橋善兵衛・騎馬▽同預同心十人▽自光坊・馬上▽かぶろ鑓一本▽長柄の笠▽長刀▽弓▽挟箱▽貝吹山伏▽山伏鎧八人▽山伏一人 常性院・馬上

  ◎十三日町▽大纏出し金の額▽鉄炮二十挺▽床机持一人▽挟箱一挺▽立傘▽みの箱▽長柄二本▽持筒三挺▽弓立一対▽持鑓一本▽引替馬一疋▽馬上一騎▽歩行の者十三人▽沓箱持▽警固のもの十人

  ◎吹手町▽吹貫二本・三十人にて引く▽鎧武者二人▽長刀持▽吹貫の車に乗り警固・上下(かみしも)着二人

  ◎新馬町▽警固足軽二人▽大昇一本▽長柄二本▽立傘一本▽挟箱一(『雑書』は二)挺▽弓一張▽鎧武者十二騎・袰懸▽警固上下着八人

  ◎油町▽唐団二本▽鳥見二人▽餌指三人▽餌篭持二人▽犬引三人▽鷹匠十一人▽挟箱二挺▽鉄炮二挺▽長柄笠一本▽馬上一騎▽草履取、内一人大きせる持▽沓篭持▽押二人▽歩行のもの十六人▽警固十人

  ◎紺屋町▽警固足軽二人▽唐団町一本▽乗懸二疋、三蔵・小哥▽鎧武者一騎▽鉄炮六挺▽弓二張▽傘一本▽挟箱▽長刀▽持鑓▽馬上一騎▽徒の者三十五人▽沓箱▽乗替馬一疋▽餌指二人▽犬引二人▽鷹匠十三人▽挟箱二挺▽警固上下着十人

  ◎寺町▽警固足軽二人▽ばれん一本・惣銀▽鉄炮十挺▽弓十張▽鳥毛鑓十本▽牽馬一疋▽立傘▽挟箱二丁▽傘一本▽みの箱▽持筒二挺▽立弓一対▽大鳥毛鑓二本▽刀筒二人▽長刀一振▽馬乗一騎▽歩行のもの十五人▽十文字鑓一本▽挟箱▽草履取三人、内一人大きせる持▽騎馬二騎▽徒の者四人▽持鑓二本▽警固上下着十人

  ◎新町▽警固足軽二人▽笠ほこ一本▽乗懸一疋▽上下着十二人▽やつこ十九人▽山の上に松植え、牛に為引、前にて子供三人、柴垣打山引二十六人▽子供五人、金瓜篭(に入れ)かつぐ▽草履取十二人▽羅生門・助惣太夫

  ◎久慈町▽紙昇▽山伏八人・内三人貝吹▽警固押共に四人

  ◎本町▽纏鳥毛の下に輪の内に銀の額、徒 具足にて二人持▽大袰十三人▽子供侍(徒か) 紅十八、白三つ、青地緞子一、のしめ一、地紫縫荷一▽立物色々・二十五人やつこ出立、脇にさげ物色々▽長刀四振、鎧候て四人にて持▽太刀持一人、鎧候て持▽白綾子供袰武者一騎、床机持一人▽わらしやつこ、指ものさし鎧武者一騎、馬取鎧候て一人▽長刀・熊手持、是も鎧候て二人▽草履取一人▽徒の者一人▽上下着三十人

  ◎材木町▽警固足軽二人▽纏 木綿昇▽山路牛に乗り草刈り、笛はやし十八人、黒羽織、つきぬき銀にてむぎわら筋鎌一丁付ける、但しざい持えぼし着る

  ◎六日町▽纏唐団▽やつこ五人▽子供花桶かつぎ十二人▽奴草履取十二人▽上下着七人▽羽織袴にて三人

  ◎大工町▽警固足軽二人▽纏輪の内に釘貫▽愛宕参、菅笠にて十人▽黒頭巾黒衣装にて五人▽奴花笠にて五十人▽白頭巾花笠矢車十人▽代参黒衣装楊子持二人▽地蔵の脇に太郎坊・二郎坊▽山伏七人、内二人ことふれ、二人貝吹、三人小哥▽別当馬上 白装束直垂▽長刀▽長柄の笠▽挟箱▽黒ほう一人▽床机持

  ◎三日町▽警固足軽二人▽唐団、昇付一本▽愛宕参り女三十人▽やつこ二十人▽挟箱二▽丁鑓二本(鉄炮二弓二)▽長刀▽乗懸一疋▽馬取一人▽小哥二人▽徒の者六人▽鎧武者三人

  ◎川原町▽笠鉾二本▽茶売り十人▽警固上下着三人

  ◎八日町▽警固足軽二人▽大昇二本▽子供奴笠二十六人▽小草履取二十六人床机持▽挟箱二丁▽鑓二本▽大奴四人▽長刀二振▽徒武者三人▽馬印日の丸昇一本▽徒の者十人▽沓箱▽上下着二十人

  ◎紙町▽警固足軽二人▽翁編綴しもくつく▽夫婦牛に乗り舅入り▽下女二人▽鼻毛にとんぼうつなぎ、同つり候もの一人▽上下着八人

  ◎三戸町▽警固足軽二人▽纏 しだれ柳▽鉄炮十三挺▽弓五張▽鎧武者五人▽持筒二挺▽立弓一対▽鑓二本▽長刀三振 何れも鎧候てこれ持▽木綿二十端にて作る大袰出し、しゆろ

  ◎仙北町▽警固足軽二人▽木綿昇▽えさし三人▽犬引一人▽鷹匠二人▽鑓一本▽挟箱▽立笠▽鉄炮二挺▽弓一張▽草履取一人▽提灯持一人▽馬乗一騎▽徒の者十五人▽沓箱▽上下着四人

  ◎鍛冶町▽田村(昇の誤り)の出し(『雑書』は日丸)、銀のひゃうたん▽餌指三人▽犬引一人▽挟箱一丁▽鷹匠一人▽鉄炮二挺▽弓二張▽立笠▽傘▽長刀▽鑓二本▽持筒一挺▽持鑓一本▽笠袋持一人▽草履取一人▽馬乗一人▽徒の者二十人▽沓箱▽上下着五人▽押警固足軽五人(『雑書』は二人)

  ◎御輿之次第(下略)        (篤焉家訓)


  【解説】

  この記録は、かつて新庄山(三上古館とも鹿嶋山とも)に鎮座した鹿嶋大明神の沿革と、寛文二(一六六二)年に挙行せられた大行列の様子を記述している。

  「かつて」には、宝暦十(一七六〇)年当時には社殿はなく要石あるのみ(『御領分』)。

  『たけたからくり』は寛政十一(一七九九)年の祭礼について「鹿嶋大明神御旅所も大廃して仮の御社名のみ残りてありけり、惣御町のわかもの、おもひおもひの風流を尽す、およそ車舞台・花万灯・大八車仕掛け・大船貝立の踊り舞台、あらひて行烈・ねりもの・笠鉾等、みな一町より二組三組宛相出し、その賑ひ中々筆紙につくされず、云々」、さらに「右御祭礼翌年相休すむ、享和元(一八〇一)辛酉年五月 御祭礼その後故有りて俄祭り一統停止仰せ出ださる」と伝えているとの意が込められている。

  近年、同社の旧境内地にマンションが建築され、同所にあった要石は天満宮境内に移されている。

  そもそも、鹿嶋大明神は盛岡城内三社の一社。御神体は藩士三上家の先祖が甲斐国から守護して三戸に勧請。盛岡城築城の時に、利直によって城地守護のために鎮座(『盛岡砂子』所収宮永系譜)。

  その後、寛文元年のことになるが、子供運に恵まれなかった重直に息女吹姫が誕生したことを慶び、姫君の無病息災を祈願して翌二年に新庄山に御旅所が創建された。重直は城下二十丁へ(一丁に米百駄=一駄七斗=あて)二千駄、『たけたからくり』は御代物二千貫文下されて挙行された祭礼。伝える行列の構成はこの時のもの。行列人数は千六百十二人なり(盛岡砂子)とも伝える。

  その概要を紹介しているが肴町が欠落しているようだ。

  十三日町(穀町の古名)・葺手町・新馬町・油町・紺屋町・寺町・新町(呉服町の古名)・久慈町・本町・材木町・六日町・大工町・三日町・川原町・八日町・紙町・三戸町・仙北町・鍛冶町の二十町からなる。

  思い思いの趣向をこらしたことが知られ、そこには古式騒然として、戦国の余風をしのばせる行列に、かくもありなんと感動さえ覚える。

  一方、『たけたからくり』は行列の構成に異説を伝えるものの、三戸町を先頭に、第二番穀町から本町・八日町・十三日町・馬町・紺屋町・油町・寺町・新町(呉服町の古名)・材木町・六日町・大工町・肴町・鍛冶町・紙町・川原町・仙北町・葺手町・第二十番久慈町まで。

  町ねりもの(出し物の名称割愛)は、後世の原形を伝えているかの風情を感じる。

  ただし、『篤焉家訓』は『雑書』の記録を写したもの。時代を特定できないが、後世に至って『たけたかくり』の構成へと変化する過程が読み取れるのがうれしい。

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