■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉19 岡澤敏男 銀河の誓い
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■銀河の誓い
大正6年7月14日の夜、賢治と嘉内はタイマツで道を照らしながら柳沢から馬返しに登って行きました。タイマツの松油が火炎にはじけ、ぱちぱち散らす火花が二人を高揚させたのでしょう。夜気をゆるがして大きな声で放歌したのです。
たいまつの
ぱちぱちもゆる
心よさ
大きな声で歌をうたへり
嘉内「岩手山紀行」より
その曲は明らかでないが、盛岡高農の学生たちがよく放歌高吟する自啓寮歌の「落葉松の緑うす煙る」や「天翅りゆく猛鷲の」は大正9年の作詞だから、その寮歌ではなさそうです。
演劇好きでトルストイアンの嘉内のことだから大正3年のトルストイ作『復活』の劇中で松井須磨子が唄った「カチューシャ」か、大正5年の『生ける屍』の主題歌「さすらいの唄」だったかも知れません。
とくに「さすらいの唄」のニヒルな歌詞や旋律は、第一次欧州大戦の戦争景気にあずかれない庶民や知的青年たちに愛唱されたものらしい。「行こか戻ろかオーロラの下を/ロシアは北国はて知らず/西は夕焼東は夜明け/鐘が鳴ります中空に」と高吟する賢治と嘉内を想像するのは、なんとも微笑ましい光景と思われるのです。
タイマツの火が消えかけたので、二人は交互に一心に息を吹きかける。すると埋もれ火がまるで赤ん坊の掌か熱帯の花のように一瞬赤く光ったがそれも消え失せました。二人は登山道の南側にある滝沢御料地の土手にのぼり身を投げ出しました。
タイマツをなくしたので夜明けまで野宿するのです。いつもタイマツの明りに馳せてきた放牧馬も夜が深くどこかで睡っているのでしょう。賢治は6月に弟清六、従弟の安太郎等を連れて山麓(ろく)を歩き道に迷ったことを思い出しました。その夜も天の川を仰ぎながら野宿をしたのです。
天の川
しらしらひかり
夜をこめて
かしはゞら行く鳥もあり
けり
賢治「夜の柏ばら」より
二人は銀河を仰ぎながら何を誓い合ったのか。短歌や日記に何も語っていないので不明ですが、その一週間後の7月22日に、秩父地方へ旅行する嘉内が花巻駅を通過する際に「花巻と聞けばこれでも/窓をあけて/まつくらのなかに、杉を見にけり」と詠んでいることは、あの夜の会話の一端をのぞかせてくれます。
杉とは湯口小学校校庭の東側にあった有名な一本杉のことで、杉に並んで生えた槻の木が癒着し一本の太い幹となって天空にそそり立つ異体同心の杉の大木のことを嘉内に話したのでしょう。
そしてこの一本杉の寓話をもとに、賢治と嘉内が手を取り合って理想の国づくりを志向し合ったことが暗示されるのです。それを裏付ける内容の文面が大正9年7月22日の嘉内宛手紙にみられます。
それは「曾ッテ盛岡デワレワレガ冥々ノ中ニ建テタアノ大キナ願」とあり、その願(誓い)とは賢治は法華経、嘉内はキリスト教によりお互いの宗教性をもって衆生を救済すべく誓い合ったものと思われます。「冥々ノ中(裡)」とは、「暗々裏」または「自然と心に感ずる」の語意が示すように、以心伝心的な立願だったのでしょう。
したがって賢治が大正10年2月上旬に「我等と衆生と無上道を成ぜん…日蓮大聖人御思召に叶ひ我等一同異体同心ならば辛い事ほど楽しいことです」と嘉内に訴えたのは、4年前に立てた〈銀河の誓い〉とはまったく異なる次元の呼び掛けだったのです。
■賢治から嘉内への手紙
(大正9年7月22日)
(前文略)私ハ曾ッテ盛岡ノ終リノ一年半アナタト一緒ニイロイロノ事ヲシタコロカラモハヤ惑ヒマセンデシタ。(タシカニワレワレハ口デコソ言ハネ同ジ願ヲタテタ筈デス。)ケレドモ今日ニナッテ実際ニ私ノ進ムベキ道ニ最早全ク惑イマセン。(中略)(偶然乍ラ数人ノ人カラアナタノ悪イ評判ヲ私ハ聞カサレマシタ。ケレドモドウセコノ人達ハ正シクアナタヲ判断スル筈ガナイシタトヘソンナ小サナ問題デナシニモット烈シイ大キナ悪イ事ヲ現ニアナタニ見タトシテモ曾ッテ盛岡デワレワレガ冥々ノ中ニ建テタアノ大キナ願ハアナタヲ去ラナイコトヲ少シモ疑ヒマセン。)
モット立チ入ッテ申セバ盛岡デアナタハ女デヒドク苦シンデヰラレタデセウ。ソノ間私ハ自分ノ建テタ願デ苦シンデヰマシタ。今日私ハ改メテコノ願ヲ九識心王大菩薩即チ世界唯一ノ大導師日蓮代上人ノ御前ニ捧ゲ奉リ新ニ大上人ノ御命ニ従ッテ起居決シテ御違背申シアゲナイコトヲ祈リマス。サテコノ悦ビコノ心ノ安ラカサハ申シヤウモアリマセン。(以下略)
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