2007年 9月 3日 (月) 

       

■  〈続・岩手人の見た戊辰戦争〉35 和井内和夫 盛岡藩に対する処分

 ■盛岡藩に対する処分

  戊辰戦争後の盛岡藩に対する処分については、今までは軽いという意見が多かったようであるがはたしてそうであろうか。

  戊辰戦争で賊とされた東北諸藩の中で、禄を減ぜられた上、移封までされたのは会津と盛岡の両藩だけである。

  会津藩は減禄25万石で実に89%を取り上げられている。それに加え寒冷不毛の僻地下北への移封という流刑に等しい扱いを受けている。

  薩長藩閥政府とくに長州藩にとっては京都騒乱時以来の仇敵であり、また抗戦ぶりも激しかったので、うなずけないこともない。

  しかし盛岡藩の場合はどうであろう。戊辰戦争直後の薩長関係者の評定では、会津・仙台をその罪最重とし、盛岡藩はその他の〓十把一からげ〓の部類に入っている。

  参戦前九条鎮撫総督が盛岡に来た際の丁重な扱いやその際の献金は別にしても、奥羽越列藩同盟内での従属的立場、参戦期間と動員兵力、そして東北全体の戦局に与えた影響や相手に与えた損害などを比較すれば、会津藩は比較にならないので別にして、奥羽越列藩同盟の主導者である仙台(減禄45%)米沢(減禄22%)の両藩や、終始勇戦力闘して西軍を苦しめた庄内藩(減禄28%)などの各藩と比較して、減禄7万石(35%)でさえ重すぎると思うのである。それに加えて白石移封とはどういうことであろう。

  盛岡藩から攻撃されて被害を受けた秋田久保田藩や、以前から対立的関係にあった弘前藩の意見が取り上げられたとも言われるが、処分は中央の決定であるのでそれはまず考えられない。

  盛岡藩の罪に加重するものがあるとすれば、8月の参戦当時、蝦夷地警備のため函館に駐屯していた藩兵が引き上げの際のトラブルがある。12月に東京で出された藩主利剛に対する処分に、「両端(敵と味方)を持し、恣に函館主禦の兵を引き揚げ」とあるのがそのことである。

  しかしこの事件は国内的にも対外的にも実害があったわけではない。この文言は意図するところがあって故意に加筆したものとしか考えられない。

  東北諸藩に対する処分は、中央で決めたものであるので、当然政治的意図による術策が入っていてもおかしくない。

  まず相手が予期しない過酷な処分を下して愕然(がくぜん)とさせ、また絶望感に陥らせ、その後恩恵的な宥恕(ゆうじょ)案である盛岡復帰を示してありがたがらせ、うれしさのあまり冷静な思考力を失った心理状態に乗じて、盛岡復帰を条件に支払い不可能な天文学的献金を押しつけるという筋書きである。

  盛岡復帰をした上で献金不可能となれば、藩そのものを取りつぶされても文句は言えないわけで、それでなくても莫大(ばくだい)な借金を負っていた盛岡藩としては、今日の自己破産に相当する廃藩以外の道はないわけである。

  事実がその通りになったことは歴史が示している。条件付きの盛岡復帰には、当時盛岡藩政を主導していた東次郎が強く反対したそうであるし、またそのほかにも献金は不可能であるとして反対した者があったそうであるが、盛岡復帰の喜びに沸き立つ流れをせき止めることはできなかったのであろう。

  盛岡藩が全国全藩に先駆けて廃藩したことをもって、それまで遅れていた盛岡藩が、初めて時代を先取りしたと評価する意見があるが、そんな恰好(かっこう)のいいこととは思われない。

  盛岡藩に対する戦後処分が行われた当時、藩閥政府関係者には、具体的とまでは言えないにしろ、彼らが描いていた中央集権体制への第一段階として、廃藩の構想があったことは確かであると思われる。

  盛岡藩はその意図に添って巧妙に誘導され、全国全藩廃藩の〓露払い〓の役割を果たさせられたと考えている。

  こういうやり方を深慮遠謀と言うのであろう。当然であるが、このような策を行うには相手を選ぶことが必要である。移封に仰天するような甘い見通しを持っていること、目先の利害得失にこだわって先が見えないこと、腹をくくって対決するような覚悟と主体性を持っていないことなどが条件であろう。

  当時の盛岡藩上層部はその条件に当てはまっていたのであろうか。わたしには盛岡藩が狙い撃ちにされたとしか思えないのである。
  (終わり)

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