■ 〈続・岩手の先人とカナダ〉6 菊池孝育 杉村濬6
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BC州内では、日本人と「支那人」は同国人、同一人種と見なされることが一般的であった。両者を識別できる一部の有識者及び経営者は、「支那人」よりはまだ日本人の方がましである、とする考え方が強かった。従って、「支那人」排撃の機運が強くなるにつれて、その代替労働力として日本人の需要が生じてきたのである。
その間の事情を杉村は次のように述べている。
「近來各製造所ノ支那人ヲ使用シ居ルモノハ白人ノ勞働社會ヨリ攻撃ヲ受クルニ因リ日本人ヲ以テ之ニ代ヘントスル傾向アリ叉土地ヲ開拓セントスル輩モ白人少ク賃銀高キヲ以テ低賃ナル日本人ヲ雇入レタシト望ム者アリ」
ここで注目しなければならないのは、BC州における日本人の需要は、日本人は勤勉で高い技能を持っているからというような、日本人の優秀性を高く評価して雇用しようとしたのではないということである。杉村の見方も「日本人ハ英閣州ニ於テハ支那人ノ如キ甚キ厭忌ヲ受ケザル方ナリ」となっている。要するに同じ東洋人である「支那人」よりはましだから、ということにすぎないのである。それに「支那人」同様に低賃金で済む点が、日本人雇用の増大理由であった。
「支那人」排斥には理由がない。単なる「厭忌」なのである。「厭忌」の背後には抜きがたい東洋人蔑視があった。当然次に排斥されるのは日本人である、と杉村は考えた。だからこそ日本人排斥の声が起こる前に、きちんとした移住計画の基に、移民政策を進めるべきである、とするのがこの意見書なのである。
「日本人」ノ移住ヲ謀ルニ付二個ノ困難アリ」と杉村は考えた。
第1の困難は「移住ノ道ヲ規則立チテ開クコト」にあるとした。これまでのように、カナダの言葉も風俗習慣も理解できない日本人が、リーダーもなしに各自バラバラに渡航しても、路頭に迷うだけである。「依テ移住ノ道ヲ開クニ付左ノ二方案ヲ考出セリ」としてその2案を具体的に説明している。
「第一方案 移住民周旋會社ヲ設立スルコト」
この案では3項目の提言を行っている。要旨は次の通りである。
1、周旋会社の出張所をカナダに置き、移民の状況及びその需要を把握して、本社に報告すること。移民到着後は就労と生活の面倒を見ること。
2、本社では出張所の報告に基づき、移民の募集、調査、選定を行い、渡航の世話をすること。
3、周旋会社の維持運営費は受益者負担として移住者個々から徴収すること。
杉村提言のとおり、後に各所に周旋会社が設立され、多くの日本人を海外に送り出した。ほとんどが良心的に周旋業務をこなしたが、中には儲け主義に走り、移民を泣かせ、外務省をはじめとする監督官庁を悩ませる周旋業者もあった。明治25、6年頃、外務省移民課長であった原敬も悪徳業者に手を焼いたのである。
「第二方案 農業會社ヲ設ケ彼地ニ於テ土地ヲ買入レ之ヲ開墾スル先例ヲ開キ以テ後進者ヲ誘導シ且ツ之ヲ世話スルコト」
当時斬新な提言であった。しかしカナダでは、明治大正時代を通じて実現されることはなかった。政府にも国民にもそれだけの余力がなかったのである。
しかしながら昭和2年になってやっと、水沢出身の吉田慎也が、スティブストンに広大な土地を購入して、「ステブストン農産會社」を設立した。故郷からの呼び寄せ移民の雇用、転々としていた「水夫ノ風」の漁師の定住を図ったのである。
「ステブストン農産會社」は株式組織であった、吉田は会社創設から太平洋戦争勃発まで社長を務めた。主として野菜と苺を生産してバンクーバーやシアトル向けに出荷した。杉村提言が同県人の後輩によって実現されたことは興味深い。 |
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