2007年 9月 7日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉183 工藤利悦 数奇な運命をたどった利済公

  ■ 利敬公御卒去後浄祐殿へ仰せ渡され御箇条

  一、文政三(一八二〇)年辰六月、利敬公御卒去の後、浄祐へ御内意これあり候は思し召しあらせられ候に付き、自今以後髪剃り申さず延し置きいかようにも結び候に、よろしく相成り候はず申し上げ候様御内々に仰せ出ださる。

  何月か願教寺を御引き取り志家の辺の仮宅にて御還俗(げんぞく)す。

  一、文政三年辰十一月二十四日浄祐殿御事、戸沢検校へ同居いたし候様仰せ出だされ、下御屋敷へ御引っ越しなさる。

  一、同年十二月二十二日浄祐殿おん事四百石(二百石地方、二百石金方)下され、高知(たかち)に召し出だされ、三戸修礼謹明と御名乗り、漆戸左司馬次座を仰せ付けられ、下御屋敷の内、検校居所を御拝領、同日御引き移り、のち楢山帯刀妹列女(佐渡叔母)との縁組願いの通り仰せ付けらる。

  一、文政四(一八二一)年巳十月朔日三戸修礼殿おん事、四百石御足し加え、御高都合八百石の御家門に仰せ出だされ、南部修礼信親(のぶはる)君と御名乗り、直々下御屋敷御住居にあいなり候に付き、十二月二十五日戸沢検校は大澤川原裏丁横丁の内、上斗米孫惣御取り上げ屋敷を下され引き移る。ただし修礼君には子敏(亡父・利謹の後名)様御持道具残らず下さる旨仰せ出ださる。

  一、文政五(一八二二)年午七月二十八日長山蔵太方にまかりあり候妙白儀(註・利謹の妾・利済生母、家臣であるから尊称はない)、修礼様にて御引き取り御養育なされ候よう仰せ出ださる。信親君、文政八(一八二五)年酉九月二十四日御家督を御相続。同十二月林家に御求め御実名を利済公と御
改め、御名信濃守様と申したてまつる。
                (『篤焉家訓』)


 【解説】

  利敬公は三十六代。『寛政重修諸家譜』は三十五代利正の嗣子として「安永八(一七七九)年に生る。天明四(一七八四)年七月十七日遣領を継ぐ」。『御系譜』は「天明二年九月二十九日生」とし、同三年二月二十三日に「妾腹の男子慶次郎、安永八年九月二十九日に出生。当時五歳」なる旨の「丈夫届」を御用番久世大和守まで提出したことを記述。実は当時二歳であったと添え書きしている。治世は天明四年から文政三(一八二〇)年まで三十八年。文政三年六月十五日に享年三十九歳で卒去した。

  一方、浄祐殿とは三十四代利雄の孫で、父は利雄の廃嫡となった利謹。後に三十八代を相続した利済である。利雄は嫡子利謹を廃嫡にした後、義父利視(三十三代・実従兄弟)の十一男利正を養嗣子として利正に三十五代の家督を譲った。つまり、利敬はその子である。ついでに戸沢検校とは利敬の伯父三戸主水信駕(利視九男)の孫。その妻永姫は浄祐同腹の姉。長山蔵太に預けられた於よねとは油御前とも称せられた、利謹の側室で浄祐・永姫の生母である。

  はじめ剃髪して妙白と号し、文政九(一八二六)年清鏡院と改称。弘化四(一八四七)年に死去している。墓所は聖寿寺。利謹内室は筑前福岡城主(五十二万石)松平筑前守源(黒田)継高の娘で麻姫。享和三(一八〇三)年に死去。圓明院殿と諡(おくりな)され、江戸・金地院に葬られている。

  この記録は、数奇の運命により十八歳で僧籍に入り、二十四歳の時に還俗を命ぜられ、二十八歳にして藩主の座に就き、晩年は江戸麻布の下屋敷に幽閉の身同然にし起居を余儀無くし、黄泉の世界に旅立ちした波乱万丈の人・利済が、還俗の時から二十万石の家領を襲封するまでの足取りを記述したもの。

    ■ 浄祐の誕生

  利謹(のち子敏を号した)の廃嫡事件は安永三(一七七四)年十一月のこと。下屋敷(内丸の金田一駐車場付近)に幽閉せられ、同七年に赦免。その後、二十三年の星霜を経て寛政九(一七九七)年八月、下屋敷の一室にて男子出生。幼名を源太(源太丸とも)と名付けられた。生母は於よねの方・油御前。浄祐の誕生である。

  文化十一(一八一四)年十一月に父利謹と死別。差したる理由は未詳であるが、即時に家族離散の下命が告げられている。時に十八歳であった。

  『篤焉家訓』別項は「源太様おん事願教寺後住(跡継ぎの住職)に仰せ付けられ御引越し(文化十一年戌十一月より)浄祐と御名改めなされ、壱ヶ年御手当金三拾両宛なり、於永様は戸沢検校へ下だされ(同年同月)壱ヶ年御手当金拾五両七人扶持を下だされ直々下御屋敷に御住居ゆえ、是へ検校も引越し仰せ付けらる。子敏様御妾於よねは、長山蔵太へ引き取り養育いたし遣わし候様仰せ付けられ、剃髪いたし妙白と名を改む、一生の内(文化十一年戌十一月より)三人扶持、雑事金弐歩銀拾四両弐分宛月々下し置かせらる」と伝える。

  源太は願教寺に入り出家。浄祐と改めた。姉永姫は戸沢検校との縁組みを申し渡され、生母於よねの方は聖寿寺にて剃髪して妙白と号し、長山蔵太へお預けの身となった。

  源太の人間形成は幼少期、父の教育および願教寺での修行時代に育まれたものとうかがえる。その人望は諸国に聞こえ、肥前平戸藩主松浦静山をして、「奥の盛岡侯〔南部信濃守利済〕、近代打続き不幸ゆゑ、以前退身の嫡子信州と称せし人の子の、僧となりしを還俗して家督せしが今の侯なり。僧たりしとき、予が隠荘北隣福巌寺と云曹洞禅の法眷にて、今福巌住持、其行実をよく知れり。此侯、家を継し始めに、諸臣の兵具を問たゞし、武器不足せし者は総て補ひ与へしと。又帰俗の後もとかく以前の禅機を持して、戒行厳粛なりと。又此度津軽侯、逼塞を仰出されしとき(文政十年四月・文恭院殿御実紀巻六十二 続徳川実紀)家臣に命ずるは、汝輩も知る如く、彼侯もと我家臣たりしが、諸侯に列するが如きは天幸なり。今計らずも恥辱を蒙ること、憐むべきの甚だしきならずや。彼の逼塞中我が内の者ども尤も穏便なるべし。これ旧を念ふの厚情なるべしと。聞者その徳意に感ぜざるなし」(『甲子夜話』)と言わしめている。

    ■ 浄祐還俗

  本文によれば、還俗の内命とは「自今以後髪を剃り申さず延し置き如何様にも結び候に、宜しく相成り候はず申し上げ候様御内々に仰せ出ださる」。文政三年辰六月とあるから三十七代の家督を継いだ利用の意向と知られる。これにより、時期は定かでないが、「願教寺を御引き取り志家の辺の仮宅にて御還俗(げんぞく)す」と見える。

  当時、利用は十七歳であったが嗣子なく、子供は後に近江彦根城主井伊掃部頭直亮の内室となる姫・鎌子(のち豊子)のみ。かつ病身であったから相続の選択は近々の課題であった。世子が未定である藩主は、参覲交代で帰国する時には必ず仮養子を立てることが慣例であった。利用ははじめ別人を立てていたが、後半から利済を指名している。明らかに血筋第一の選択であったと勘考される。文政八年、病症を押して江戸參府の行列を立てたが、途中宇都宮にて力つき病死。仮養子の手続きがあり、無事に利済が跡式を継いでいる。

  これより先、文政三年辰十一月下御屋敷へ引き移り同年十二月二十二日高知に召出されて四百石(弐百石地方、弐百石金方)を宛行われ、三戸修礼謹明と名乗ったことは本文の通りである。

  次いで楢山帯刀妹列女との縁組を調え、二人の間に利義(三十九代)、利剛(四十代)ほかの子供が授かっている。その後の経緯は本文の通り。

  文政十年十二月十六日侍従に昇り、天保十(一八三九)年十二月二十八日左近衛権少将に任官、嘉永元(一八四八)年六月十三日致仕、安政二(一八五六)年四月十四日卒、享年五十九、顕道宗祗霊承院と号す。聖寿寺に葬らる。利済の治世は悪政をもって評されているが、誤解に満ちているように思えてならない。

  新渡戸十次郎編『御国益考』外に散見するもろもろの意見は、利済の藩財政立て直し建策の呼び掛けに応える庶民の声の一端に過ぎないが、それらの動きを無視した利済評は片手落ちである。それを傍証して佐藤信淵は利済を稀にみる名君と評している。傾聴するに値しよう。

  具体的なことを記載するスペースはない。人の評価には甲乙あるものの、再評価に値する人物であることを訴えて一応筆を置く。

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