2007年 9月 8日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〉21 岡澤敏夫 母を亡くした嘉内

 ■母を亡くした嘉内

  嘉内は甲府盆地の北方にある農耕地帯の駒井村に生まれ中農の家庭に育ちました。父善作は郡役所に勤務して田畑は傭人や小作にまかせていたが、嘉内は幼児のころから傭人らに交じり農作業に手を染めていたという。

  甲府中学時代にはトルストイにひかれ自然礼賛、農村憧憬の思想に目覚めて弁論部に入り「花園農村、美的百姓、農業芸術論」と題して演説を行いました。盛岡高等農林を志望したのもこれらの延長線上にあったのです。卒業後の計画は村に帰り村長となること、土地を改良し、農村副業を興こし、多角経営、協同組合的組織を基礎にした模範的な農村を築くことでした。

  この理想村には嘉内の好んだ芝居などをする農民館、図書館、体育場、村立病院までが青図面に描かれていたのでした。こうした夢は学校側のまったく理不尽な退学処分によって挫折してしまったのでした。

  4月になって、理想村建設の夢を再構築するために駒場か札幌の農科大学受験をめざし、準備のため上京して明治大学へ籍を置きました。しかし6月16日、嘉内は最愛の母いまを亡くしたのです。自我のつよい嘉内の性分をのみこんでいた母は、厳しい父と相克することもないようにとりなしていました。

  盛岡高等農林からの合格通知には本人以上に母は喜んでくれたのでした。出郷に際して「旅立つ日父母の言ふことありがたし独りたゝずみ涙するかも」と詠んだのは母への感涙だったのでしょう。

  嘉内が退学処分をうけたとき勝ち気な息子が意気消沈するのをみかねた母は、学校に復校嘆願書を出すように父善作をうながしたものとみられます。

  このように幼少から嘉内の心の支えでありつづけた母いまは、賢治の母イチと相通じる母性像の持ち主でした。したがって母いまの死は、退学事件にもまして深刻な衝撃を嘉内にもたらしたに違いありません。

  嘉内はお盆の送り火のなかに、供養と称して母に関わる幾冊かの書き物を焼き捨てました。母との純粋な交流に他人の関与を拒絶した嘉内は、何ひとつ母の死について書き残さなかったのです。

  この訃報を聞いた賢治は嘉内にお悔やみの便りをしました。6月20日ころのことです。「今河本さんから聞けば今度あなたの帰省なさつたのは御母さんの御亡くなりになった為だとのことですが本統ですか」と問い掛け、賢治の母イチのことを語りながら、嘉内の母を追悼しています。

  次に自分の信仰の道を明らかにすることが母への孝養をつくす道だと述べ、紙面の後半に南無妙法蓮華経のお題目をびっしりと上下二段に28回も列記しました。これは嘉内の母を供養する読経の意味だったと思われます。


 ■嘉内の母の死を悼む賢治の手紙(抜粋)
      (「書簡72」大正7年6月20日前後)

  「私の母は私を二十のときに持ちました。何から何までどこの母な人よりもよく私を育てゝ呉れました。私の母は今年まで東京から向へ出たこともなく中風の祖母を三年も世話して呉れ又同じ病気の祖父をも面倒して呉れました。そして居て自分は肺を痛めて居るのです。私は自分で稼いだ御金でこの母親に伊勢詣りがさせたいと永い間思ってゐました。けれども又私はかた意地な子供ですから何にでも逆らってばかり居ます。この母に私は何も酬へたらいゝのでせうか。それ処ではない。全体どうすればいゝのでせうか。

  私の家では一つの信仰が満ちてゐます。私はけれどもその信仰をあきたらず思ひます。勿体のない申し分ながらこの様な信仰はみんなの中に居る間だけです。早く自らの出離の道を明らめ、人をも導き自ら神力をも具へ人をも法楽にいらしめる。それより外に私には私の母に対する道はありません。(以下略)」


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