愛知県豊橋市から飯田線で北へ50キロ、約1時間半、25番目に「東栄」という駅がある。行政上の地名は愛知県北設楽郡東栄町で、長野県と静岡県に近接する東三河の山岳地帯である。
駅に立つと街らしきものはなく、なぜか鬼の顔をした駅舎だけがポツンと山の中にある。
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鬼の顔をしたJR飯田線「東栄」駅 |
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駅からバスで20分ほど北へ行くと、本郷という開けた集落がある。ここに役場や農協があり、現在この町の中心地になっている。
その隣の「中設楽」という地域には設楽城址がある。平安末期に設楽四郎が振草川のほとりに城を築いたとされる。川が城址(し)を囲むように大きく迂(う)回した高台にある。まさに天然の要害といえるであろう。
時代が下り、鎌倉時代になってこの振草川流域は「振草郷」と呼ばれ、伊藤佐亮貞久が地頭となってこの地を領したという。
そしてこの中心地である本郷地区の隣に「下田」というところがあり、そこに「長養院」という小さな寺が建っている。この寺が「さんさ踊り発祥の地」と言われているのはなぜであろうか。
保元・平治の乱(1180〜85)に始まる源氏と平氏の戦いは、貴族社会が崩壊し新しい武家社会の始まりとなる大きな内乱であった。
源頼朝が打ち立てた鎌倉幕府も長くは安定せず、北条氏の執権に対する東国の御家人や武士団の不服が、水面下でくすぶる状態が続いていた。そのような中でやがて起こる「曾我兄弟の仇討ち事件」にかかわる伊豆の工藤氏の一族、韮山の工藤左衛門祐経の徒弟、祐時は、建久4年(1190)5月、富士の巻狩りの夜、3人の子供祐孝、道柳、道極と5人の家来を連れて逃げ、流れ流れて三河の奥地「振草郷」へたどり着いた。
そして村の小高い丘に砦(とりで)を構え、3人の子供たちとともに周辺の地を切り開いてこの地に定着した。5人の家来たちも柳沢某はどこに、平井某、佐々木某、三井某、夏目某はどこに、などとそれぞれの地に住み着いた。
時代が下って明応元年(1492)に、伊豆韮山から光国舜玉という16歳の若い僧侶が、何らかの事情があって彼ら(その時点で、工藤祐時の子孫は出身地の伊東氏を名乗っていた)を頼ってやって来、すでにあった真言宗安養院(後に曹洞宗長養院に変わる)に入った。
光国和尚は甲州武田信武の4男で、武田信玄の叔父にあたる。彼は後に豊橋の二連木松寿山全久院、長野県阿南町新野の瑞光院、岡崎の蓮華寺、埼玉県神川村の辛春院、岐阜県明知の安住寺などを開山し、三河を中心として近隣諸国にまで仏教を広める大和尚となるのである。
(つづく)
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