■ 〈賢治の置土産〉22 岡澤敏男 嘉内の「御決心」
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■嘉内の「御決心」
嘉内は駒場か北大へ受験するため明治大学に籍を置き、道玄坂近くの従姉夫婦の家に下宿していました。従姉の実家は甲府の街の粋筋に出入りする呉服屋なので身じまいもよく、まだ24歳の若さでもあり嘉内とはすっかり話がなじんで楽しかったのです。
また芝居好きの従姉は嘉内を同伴し歌舞伎座や明治座へ月に3、4度は出掛けました。道玄坂には夜店がずらっと並び、読書の疲れをとるには格好の散歩道で、在京生活はまんざらでもなかったのです。だが母を亡くしてからは進学への意欲を失ってしまい、やがて断念することになりました。
嘉内は11月ころ、かねての持論だった「土地を改良し、農村副業を興し、多角経営、協同組合的組織をもって農村改良」するために農業者になろうと決心し帰郷することになりました。
このように進学をやめ希望を持って帰郷する決意をアザリアのグループに通知したらしく、さっそく河村義行から「若き農業者よ、愛するものよ、御身よりの熱き手紙を受取りしは11月14日の午後なりき、御身の手紙は実に余を雀躍せしめた。御身の感激は尊く、御身の決心は確実だ。…真の若き農業者よ」(11月18日)と賛辞するハガキが届き、賢治も「この度は又御決心の程誠に羨しく、御礼申し上げます」(12月初めころ)と手紙を送ったのでした。賢治は嘉内になぜ御礼を申し上げたのでしょうか。
6月ころ、母を亡くした嘉内に「如来寿量品の写経をしろ」とか「御母さんの棺の前で自分一人の悟り求めてはいけない」とか、法華経へ入信を声だかに迫っていた賢治だったが、7月になって肋膜炎を患い、また父も年来の胃腸が悪く温泉で養生する話も出ていたので高農の研究生を退学して家業をみなければならない状況に追い込まれました。
賢治は地質調査のおりに目を止めた林野を耕して桐の苗作りをしたり、合名会社をつくって工業原料の小工場を持ちたいと考えるようになっていました。
しかし「今や私は学校を中途にやめ分析も自分の分を終らず、先生が来ても随いても歩けず、古着の中に座り、朝から晩まで本をつかんでゐるか、利子やまうけ歩合のの勘定をするかしてゐます。これが体裁のよいことか悪いことか農学得業士がやつてはづかしいことか恥しくないことか健康によいことかわるいことかどうも何にせよ仕方ありません」と自信のなさを告白したうえで、「若しできるなら早く人を相手にしないで自分が相手の仕事に入りたい」と述べました。これが嘉内の「御決心」に励まされたことの御礼だったのでしょうか。
なお7月に賢治が患った肋膜炎は「後年、その命を奪った最初の徴候があらわれている」(堀尾青史「年譜・宮沢賢治伝」)という見方もあります。また嘉内の「御決心」については、「来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になります」(大正14年6月25日)と嘉内に送った賢治の手紙の「決心」につながるという見方もあるのです。
■農業者になる嘉内への賢治の手紙(抜粋)
(「書簡93」大正7年12月初め)
「この度は又御決心の程誠に羨しく、御礼申し上げます。私も同じ様な方法をやうやく数日前採ることにきめました。(中略)
私のうちでは今の商売を大正九年迄続けて居ればそれから後は学費もあまり要らないし学校を出たものはみな働くし先ず仮令父が今の様に病気でも何とか出来るのです。今私が私の望む様に東京へでも小工場を持つといふことは家としては非常な損ですし又当分は不可能です。又私一人、家にかゝはりない私、個人としてはさっぱりそんなまうけることはしたくありませんししなくとも畑の三段歩も耕してゐれば静に自分を完成してゐくことが出来るのです。(中略)
みんなの為を思ふならば、先づ自分を完成しなければなりませんがその道・方法は自分の為でもほかののひとの為でもいゝ訳だらうと思いました。
(いまや私は学校を中途にやめ…以下6行は本文)
えらい人たちは烈しい人の心の中で恐れず怒らず自分の道を進んで行くやうですが私にはそんなことは当分見込みありません。やはり険しい世界へ入ればそれにばかり気をとられてしまひます。それですから私は大正九年以後の私の仕事は今から御約束致しかねます。多分はまだは林のなかへは入り兼ね小さな工場を造ってその中で独りで、しんみり稼ぎませう。(以下略)」
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