■ 〈続・岩手の先人とカナダ〉7 菊池孝育 杉村濬7
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杉村は続ける。「第二ノ困難ハ向後渡航セントスル日本人民ノ志操及品行ハ現今ノ在留下等人ト同一ナル時ハ到底彼地ニ於テ永久ノ職業ヲ營ミ彼国人ノ親愛ヲ受クルコト能ハス」
冒頭で「日本人民ノ志操及品行」を取り上げなければならなかったことは、当時資質の低い在留日本人が、かなり多かったことを推測させる。前回検討した「水夫の風」の日本人もその例であることは間違いない。杉村は「水夫の風」の日本人は「在留下等人」と同一であると考えた。「在留下等人」とは各国からの移住者のうち、無職不定住の浮浪者層を意味した。
移民はその国の生活環境(広い意味での文化)に適応し同化することが求められる。「彼地ニ於テ永久ノ職業ヲ營ミ彼国人ノ親愛ヲ受クルコト」の意味は、現地に永住してカナダに適応・同化することを意味する。もし適応・同化ができなければ、「支那人ト同様ニ拒絶セラルヽニ至ル」と杉村は断言するのである。
当時「支那人」は、所謂チャイナタウンと呼ばれる同国人だけの集落を形成していた。
そのことが同化を拒んでいるようにカナダ人には映った。それ故に排斥を受けたと評する学者もいる。しかしチャイナタウンを形成した動機は、一種の自衛手段であったことは明らかである。人種的偏見に基づく謂(いわ)れなき排斥と迫害にさらされながら、自分たちの生活と生命を守る唯一の手段が身を寄せ合い、助け合う集落生活だったのである。
動機は如何なるものであっても、同国人だけのコミュニティになっては、移住先への同化は困難になることは自明の理である。チャイナタウンがカナダ人から排斥される一因となっても不思議ではない。
当時の日本人もパウエルストリートの一角に日本人だけの集落を作りつつあった。後年リトルトーキョーと呼ばれるようになる日本人街である。メインストリートのチャイナタウンとは指呼の間にあった。
移住直後はヨーロッパ系移民でさえも同国人が肩を寄せ合うように暮らす傾向が強かった。これは言葉の障壁が高かったからである。
しかしある程度英語ができるようになると進んで先着のカナダ人コミュニティに入り込んで行ったのである。この点日本人及び「支那人」は異なっていた。一部を除いて、現地の風俗習慣を理解し、英語を習得しようとする意欲が全くというほどなかったのである。
一つは、日本語中国語の言語体系はインド・ヨーロッパ系言語と全く異なること、従って英語の習得はヨーロッパ系移民に比べ、極めて困難であり、端から諦(あきら)めていたきらいがあったことである。
また、明治の日本人移民は壮士風の気概に富み、喜怒哀楽を面に出さず、不言実行を標榜(ぼう)して生きた。他国人と英語でつき合うことなど、軟弱な人間の行動に思えたのである。
1970年代のカナダで、「毛唐(外国人)の言葉など馬鹿らしくてしゃべれるか。大和魂が汚れるだけじゃ。」と、ある高齢の一世が吐き捨てるように語ったことを筆者は覚えている。この思いは明治期にはもっと強烈なものであったに違いない。
杉村はれっきとした武士(南部藩士)であった。けれども日本人移民の狭隘(きょうあい)な民族主義的考え方や生き方に、決して同調しなかった。むしろ危惧(ぐ)さえ抱いたのであった。
日本人街に安住すれば、カナダへの適応も同化も困難になる。ひいては「支那人」のように排斥される結果となる。一日も早くカナダの生活に慣れ、カナダ人に親しむ必要がある。杉村は声を大にして日本人移民を諭した。同時にその危惧を意見書に認(したた)めたのである。
「郷に入っては郷に従え」は、外地(朝鮮、台湾)の生活体験から得た杉村の哲学であったと考えられる。しかし聞く耳を持つ移民は少なかった。聞く耳があったとしても、ほとんどは日々の生活に汲々としていた。「水夫の風」の日本人は馬耳東風であった。
次に杉村は「第二ノ困難」の核心である『カナダにおける日本人移民の心構え』なるものをまとめるのである。 |
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