2007年 10月 1日 (月) 

       

■  〈盛岡の堰〉1 和井内和夫 城下盛岡の町並み

 ■城下盛岡の町並み

  藩政時代の盛岡城下の絵図面を見ると、当時の盛岡城下で市街地としてまとまっていたのは、不来方城を中心として、東西方向は北上川の左岸から中津川の東側に連なる町並みまで、南北方向は南は馬場小路から北は花屋町あたりまでで、東西2千メートル、南北1500メートルぐらいの部分である。

  その中心部にあった不来方城の周りは重臣たちの屋敷で固め、その外側に一般の藩士たちの住居や町家が並んでいた。

  中津川の東いわゆる河南地区は、上流側から御持筒町・同心町(加賀野小路)・紙町・鍛冶町・紺屋町・葺手町・小人町・肴町・生姜町・呉服町・六日町・馬町・穀町と連なっていた。紙町から下は主として商人や職人の町であるが、最下流の中津川と北上川の合流点近くの馬場小路にはまとまって藩士たちの住居があった。

  河北の方の古い町並みと言えば、本町・油町・花屋町・大工町・八日町・三戸町・長町・上田小路・帷子小路・平山小路・新山小路などが挙げられ、上田小路以下に藩士たちの住居が集中していた。

  そしてそのほかに、盛岡城下から領内各地方に向けて、東西南北に延びていた街道筋に沿った家並みがあった。

  東方向へは鉈屋町・上小路・神子田、南方向へは仙北町・仙北組町、西方向へは新田町そして北方向へは上田組町と下小路の家並みである。

  そのほかにまとまった集落らしいものと言えば、盛岡の城下町形成の時から、計画的に城や町場から離し、北部の山際と東部の丘陵地帯周辺に配置された寺院や神社の門前町ぐらいのものであったと思われる。ちなみに八幡町は盛岡開府のずっと後になって不来方城内から遷座した八幡宮の門前町である。

  それ以外の周辺の平坦部は田んぼや湿地で、そのところどころに農家が散在していたのであろう。

  そのため藩制時代から、農業用水や周辺集落の洗い水・風呂用などの生活用水や、牛馬の飲み水また防火用水として、中津川を境として河南と河北それぞれに用水堰が設けられていた。

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