2007年 10月 4日 (木)
■ 〈盛岡の堰〉2 和井内和夫 加賀野堰〜桜川〜 鴨入川
■加賀野堰〜桜川〜鴨入川
加賀野堰は加賀野から中津川とほぼ平行に河南地区を南北に縦断している。
河南のほうは中津川から取水している。中津川と米内川の合流点にある水道橋から中津川を200メートルほど上った薬師神社の対岸旧浅岸村柿木平が取り入れ口である。
現在のつつじが丘団地の北側にある稲久保など2、3の沢の水を合わせ、現在区画整理工事施工中の浅岸大塚を流れ、大日如来のある妙泉寺山のふもとから住吉神社の前を通り、松尾神社の前から「あさ開酒造」の構内を北から南へ縦断して流れる。
流末は戦後まであった神子田の田んぼをうるおし、現在の盛岡バイパス南大橋のすぐ上流にある下水処理ポンプ場付近で北上川に注いでいたようである。
水量は豊富で、かつては加賀野の現付属中学校の盛岡バイパスを挟んだ向かい側に、通称「くるま」と言った精米所があり、この水流を利用した水車で精米や製粉をやっていたそうである。またその下流にも、神子田までの間に何台かの水車があった話が伝わっている。
南大通に残る桜川の名残地形。石垣は当時と同じ姿と思われる
最近確かめたところでは、あさ開酒造の構内に盛岡市の所有を示す標柱が付いたふた付きのコンクリート溝がある。間違いなく桜川の跡であろう。あさ開酒造の北側入り口の側に「土橋橋本屋」という屋号のそば屋があるが、その屋号はかつてその地点に桜川にかかる土橋があった名残であろう。
戦前からのことだと思うが、水量を補うためであろう、中津川と米内川の合流点のすぐ下流にある溜(た)め(小ダム)からも取水している。
途中かつて食肉処理場があった加賀野の田神松と北井崎付近の2カ所で分流し、その末端はいずれも中津川に流れ込んでいる。
田神松の方は豪雨が降った時逆流して上流側が氾濫(はんらん)するのを防止するためのバイパス用で、北井崎の方は当時加賀野の北井崎や春木場にあった田んぼの灌漑(かんがい)用であったと思われる。
この堰は上流では加賀野堰あるいは大堰と呼ばれ、中流では桜川そして最下流の神子田では鴨入川と言っていた。桜川の名の由来であるが、かつて住吉神社の付近の堰の土手に植えられた桜並木によったということである。
古老の話であるが、昔は新庄や志家には田んぼが多く、縦横に灌漑用の用水路が走っていて、その水路に木で作ったおもちゃの船などを流すと、1日か2日ぐらいで鴨入川に流れて来たそうである。
旧盛岡市内ではこの鴨入川が流れていた神子田が一番標高が低いので、下水道や地下式排水路が普及する以前は、河南地区の側溝や用水堰の水は、最終的にはこの鴨入川に流れ下ったのであろう。
この堰のルートは藩制時代とほとんど変わっていないが、現在では加賀野4丁目の職業訓練センター付近から下流はふた付きの側溝状あるいは暗渠(あんきょ)になっていて、かつて多用途の堰として沿線農家や住民の生活に欠かせず、また子供たちの楽しい遊び場だった面影はまったくと言っていいほど残っていない。
開渠(かいきょ)よりふた付き側溝や暗渠の方が安全で管理しやすいのは分かるが、最近の都市のインフラらしく、機能第一が徹底しすぎて面白くないものの典型である。
ただし、八幡町の八幡神社手前の坂の南側には、堰を挟んだ両岸の土地のレベルに大きな差があったため、現在でも護岸の石垣の一部が擁壁状に残っており、また松尾町の建設会館の裏に、長さにしてはわずかであるが、数本の大きな樹木とともにふた付きの堰らしいものを見ることができる。わびしい姿ではあるが辛うじて残った桜川の痕跡である。現在浅岸の妙泉寺山の北麓(ろく)に沿って流れている堰は、区画整理によって新設された別物である。
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