2007年 10月 5日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉186 工藤利悦 盛岡藩が諸士の由緒とりまとめを計画

 【解説】元文元(一七三七)年に盛岡藩は、諸士の由緒取りまとめ事業を企画して圓子記と伊藤祐清に下命した。

  寛延二(一七四九)年に成立を見たのが『系胤譜考』(六十八冊)である。この時、諸家に由緒の書き上げとともに主家南部家(新規取立の諸士には旧主家分を含む)が発給した古書簡類(知行宛行状を含む)の提出を示達している。

  このうち知行宛行状の内、一部を含むが、書簡類を写しまとめたものが『宝翰類聚』(原本の所在不明)。所収文書は百五十八通・詠歌四十八首。一部は『御当家御記録』などにおさめられているものの、原本が私蔵であったり、消滅した文書なども多く含まれてある状況下で、得難い史料集である。

  写本は県立図書館および二戸市・川島家所蔵本(県立図書館本の写本)が知られている。

  一方、南部家が発給した知行宛行状所蔵者のうち、歴代藩主の黒印状所蔵者を目録仕立てにしたものがここに見る『普胤鑑考』。原本の所在は未詳である。

  信直、慶長四(一五九九)年歿。利直、慶長九(一六〇四)年歿。重直、寛文四(一六六四)年歿の三代と、花巻城代彦九郎(政直利直二男、寛永元(一六二四)年歿)分に限定して百六十三家分が納められている。

  ただし、『内史略』には外に「館五左衛門と日戸甚之丞」の二名があり百六十五家分である。目録が重直代を下限としている理由は、黒印状を中心としていることと、南部家における藩主黒印による知行宛行状発給は、重直代の明暦三(一六五七)年を下限とし、翌四年以降は家老連署状に改編されていることに起因しているためと想定される。

  「利視公」は南部家三十三代当主。治世は享保十(一七二五)年から宝暦二(一七五二)年まで。藩はこの後、諸士の由緒を管理する役所『由緒所』を設置し、関連する記録として、『諸士給人由緒』(一部散逸・盛岡市中央公民館所蔵「南部家文書」。ほかに福岡代官所記録・毛馬内代官所記録等の存在も知られている)が伝存している。

  発給者別明細をみると、●信直公分所持者十四人、○利直公分同五十一人、◆重直公分八人、◇彦九郎君同分十五人(花巻の召抱えとなる)、無表示のものが同七十五人である。

  しかし、さらに●信直公分十四人を引き合いに詳細をみると、信直が発給した文書の所持者は五人のみ、残り九人は利直代に発給された書状の所持者で構成するといった状況である。

  他の発給者分についてもだいぶ錯綜している。『系胤譜考』に記載の文書に照らして再分類、および分析の概要は次回に譲るとして、記載されている氏名は当時の所持者。中には断絶した本家の分を引き継ぎ所持している人もいる。

  書状の内容は、必ずしも召抱え時の宛行状とは限らない。『系胤譜考』を改めて見ると、知行替え、加増の時の状も含まれてあり、中には書状の確認が出来ないものもある。また、ここでは記載もれという形になるが、ほかに下田大学宛状、石亀七左衛門宛状を所持している家も散見する。

  ■ 普胤鑑考(『由緒御書物』外題)

  補注『系』は『系胤譜考』の略、月日の相違には触れない。
 
  利視公御代寛保元(一七四一)年酉五月より寛延二(一七四九)年巳七月まで、大小諸士の由緒古実を御尋ねなされ候節、御先代様より下し置かせられ候御墨印ご覧遊ばされ候こと

  御墨印合印、●信長公、○利直公、◆重直公、◇彦九郎(政直君)
○八戸弾正 
○中野筑後 慶長十九(一六一四)年十月十九日三千百石御印○南彦八郎 元和六(一六二〇)年十一月十一日三千六百石
●北九兵衛 天正十九(一五八七)年十一月八千石宛所主馬尉
○北彦野右衛門 慶長八(一六〇三)年十月十四日八千石松斎殿

  東彦七郎 元和二(一六一六)年七月六日二千四百石金鶴殿
○桜庭安房 二千石御印
○楢山五左衛門 慶長八(一六〇三)年八月二十日千三百石南部五左衛門殿とあり
●葛巻覚右衛門 元和四(一六一八)年八月二十日千三百五十石掃部助殿
○奥瀬内蔵 慶長四(一五九九)年極(十二)月八日三百石
○毛馬内三左衛門 元和七(一六二一)年五月二十八日八百石 付せん=当時御番頭四百石余。毛馬内家の祖なり
●江刺長作 年号なし九月二十五日千五百石(天正十八年)
○野田藤兵衛 元和六(一六二〇)年五月五日掃部助殿千三百石
○内堀帯刀 慶長八(一六〇三)年十月三十日千石

  下田権兵衛 元和二(一六一六)年六月二十七日三百二石治太夫殿

  下田覚蔵 慶長十四(一六〇九)年十月七日三百石長次郎
○新渡戸藤馬 慶長十五(一六一〇)年九月二十七日二百石内膳とあり

  大萱生長左衛門 寛永(原本宝永)六(一六〇一)年十一月十二日六百五十石玄蕃
○足沢六之丞 三百五十石

  石亀弥左衛門 四百石
○葛西正兵衛 慶長十五(一六一〇)年五月二十三日五百石加増、合七百石御墨印
○三上多兵衛 百二十石利直公御黒印、員数なし、宛所三上源太郎(『系』寛永二年)

  日戸五郎左衛門 慶長十三(一六〇八)年六月八日千六百石内膳殿とあり

  野辺地弥左衛門 慶長十九(一六一四)年九月十七日百石の御印

  戸来治部之丞 八百石御印
○野田金太夫 百二十石御印
◇岩間左市之助 二百石御印(『系』元和八年)

  奥寺市之丞 三百石御印(『系』寛永八年三百五十石)

  玉山兵庫 慶長四(一五九九)年八月十二日三百五十石

  滝沢八左衛門 元和七(一六二一)年六月二十七日三百石助五郎とあり

  築田平右衛門 千石御印(『系』天正十六年)
○坂牛六左衛門 二百六十石御印

  石川助右衛門 三百石御印(『系』慶長六年)

  帷子多次右衛門 二百五十石御印
○木村 杢 百二十石御印(『系』確認出来ない、杢之助秀矩は慶長九年家督、寛永十四年歿)

  日戸勘十郎 百五十石御印
○横浜 登 元和二(一六一六)年六月二百石御印

  四戸甚之丞 二百石御印(『系』確認出来ない、寛永四年二百五十石加増分は散見す)

  下斗米小四郎 二百石御印(『系』慶長中弐百六十石を賜うとの文言はあるが宛行状写なし)
○四戸金左衛門 慶長十九(一六一四)年九月十七日三百石御印
○本堂源右衛門 慶長八(一六〇三)年十月三百石御印源太郎
●切田小平治 慶長十九(一六一四)年九月十七日
●三ケ尻弥兵衛 天正十九(一六九一)年霜(十一)月五日三百石御印(『系』天正十八年、写あり)
○下田伴右衛門 二百石御印
◇沢田長兵衛 五十石御印(『系』元和八年、状写あり)
○米内長太夫 四百石御印(『系』慶長十二年)
○美濃部長十郎    二百石御印(『系』慶長十五年)
●船越弥三左衛門 九百六十石御印(『系』断絶本家助五郎宛の文書慶長元年状写あり)
○波岡六左衛門 二百石御印(『系』慶長六年、ほか状写あり)

  小向四郎兵衛 二百石御印(『系』寛永四年)
○八木橋茂右衛門 寛永八(一六四一)年十一月孫左衛門とあり三十石 (『系』十二月、父左馬助が八月利康に殉死した)

  久慈弥左衛門 二百石御者頭印(『系』発給年が確認出来ない)

  小技指清太夫 慶長十八(一六一三)年四月七日五百石御印 金松とあり
◇織笠庄助 慶長十九(一六一四)年十月六日百石御印、勝助
○袰綿清(瀬)兵衛 百五十石御印(『系』慶長十八年三百石宛行状はあるが、百五十石状は見えない)

  中里半兵衛 二百石御印(『系』記載なし)

  穴沢吉太郎 寛永四(一六二七)年十一月二十八日百二十石御印、門三郎とあり
◆坂牛杢太夫 寛永十(一六三三)年十二月二十一日百五十石御印(参考諸家系図『系』元和二年)
●沢田助三郎 慶長十六(一六一一)年十月二十五日七百九十七石八斗九升五合(『系』年号記載なし)
●栃内与兵衛 寛永六(一六二九)年十二月八日二百石御印 右京とあり

  米田四郎兵衛 慶長五(一六〇〇)年八月三十日五百石御印、摂津とあり(『系』明暦二年状があるものの当該状は見えない)
◇浜田庄太夫 寛永四(一六二七)年十二月朔日七百石外に御役御印、彦兵衛とあり
●津島弥惣 六十石御印(『系』元和六年七十石)

  鬼柳三十郎 百五十石御印(『系』寛永十五年)

  以下次号   (篤焉家訓)

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