■せせらぎ水路 北部幹線路〜赤川
河北の方は正式には北部幹線路と言うそうであるが、上盛岡駅付近から下流は通称赤川と言い、繁華街の中心部を流れていたため人の目に触れることも多く、また比較的最近まで堰(せき)の形態が残っていて水が流れていたし、後でも触れるが、現在でもところどころにはっきりした痕跡が残っているのでご存知の人も多いと思う。
こちらもやはり中津川から取水している。戦前は現在の山岸小学校のすぐわきに取水用の留(と)め(小ダム)があり、私も子供のころはそこで泳いだものだが、子供の背が立たないぐらいの深さがあり、私が小学校5、6年のころは学校では水泳禁止としていた。
現在はその留め(小ダム)は跡形もなく、400メートルほど上流から取水しているようである。
かつてはもっと上流の米内川から取水し、落合橋付近から中津川右岸の山際を流れてその辺の田んぼをかんがいし、今の紅葉が丘団地の南で本流に合流する流れもあったそうであるが、落合橋から山岸小学校の間のJR山田線両側の田んぼが宅地化された現在では痕跡も分からない。
山岸小学校のそばの留めに発した北部幹線路は、現在の紅葉が丘団地付近にあった銭神沢の水を合わせ、山岸一丁目の食料事務所の裏からグランドホテルのある愛宕山の裾(すそ)を回り、今のJR上盛岡駅付近で、西から流れて来たかんがい用であり、また上田の湿地帯の排水用でもあった原赤川と合流し、不来方城の西側の外堀に流れ込んでいたようである。
そしてこれも加賀野堰と同じであるが、雨で増水した時の逆流によるはんらん防止のバイパスとして、山岸の山賀橋のすぐ上流と前記の食糧事務所のところの2か所で分流し中津川に流すようになっている。
この堰の主目的は、現在中央公民館がある下小路の西側三ッ割地区の田んぼのかんがい用でもあったが、そのほかにも北山に集中していた寺院の生活用水や防火用水の役割も果たしていたと想像される。
そこまでは桜川と同じであるが、仁王小学校より下流部分になると形成の過程も目的も大分違っている。
かつてこの堰の上流の山岸の岩谷稲荷神社付近は、子供の水遊びの場所として絶好であって、当時を知る人の話では子供がおぼれかけたこともあったそうで、相当の水流だったことが想像できる。
ちなみに赤川の名の由来であるが、藩政時代の絵図面を見ると、上田の北の方にアカ山という名が見えるので、多分それからきたものであろう。
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