2007年 10月 8日 (月)
■ 「三日月神社」を探せ 盛岡市の漆戸さんが1年がかりで突き止めた歴史ロマン
「三日月やしろ」という神社をご存じだろうか。盛岡市月が丘の漆戸邦夫さん(73)がある日、ふと目に止まった追分石に、そう記されているのを見つけた。「はて、聞いたことがない」。地域の歴史に詳しい人に尋ねて回ったが、誰も知らなかった。それから、漆戸さんの調査が始まった。古文書を調べ、現地を歩きまわった。それから1年。確かに「三日月やしろ」は存在した。そこには忘れられようとしている地域の風習があった。(赤坂史人記者)
約10キロの調査の過程を説明する漆戸さん(中央)
漆戸さんは73歳。健康増進のため毎日、自転車で市内まで通っている。昨年の秋、前九年3丁目の道の傍らにある追分石の板碑に目が止まった。そこには「左 三日月やしろ」とかすれた字が記されていた。三日月という言葉の響きにひきつけられた。
「三日月とは聞いたことのない神社だった。詳しい人に尋ねたが知っている人はいなかった」。古書を調べ現地調査が始まった。
「三日月やしろ」と記された追分石は前九年3丁目地内にある。現在の江南義塾高校の脇を通る県道の傍らにある。漆戸さんは早速、法務局へ行き、明治初期に作られた測量絵図をもとに江戸時代の古道を探った。市内方面から滝沢に向かって古道をたどると幾つかの分岐点に至る。これらの分岐点は追分とよばれ、追分石が供養塔などとともに設置され、左右の道しるべになっている。
「三日月やしろ」に至るまでの道程は笹森追分、狐洞追分などがあり、それらの追分石にも「三日月やしろ」の文字を確認した。ただし、多くの板碑は道路拡張や土地整備などによって、一つの場所に集められたり、向きが逆になったりしていた。
漆戸さんは図書館へ足しげく通った。明治期、江戸時代などの資料を基にかつての古道を想像しながら現地を歩いた。聞き取りもした。そして追分石の正しい位置、方向を突き止めた。現在なくなってしまっている個所の古道も再確認した。
前九年3丁目地内にある追分石。「左 三日月やしろ」と読める
調査の最後にたどり着いたのは滝沢村鵜飼字上鵜飼。同村役場とチャグチャグ馬コの出発地である蒼前神社(駒形神社)のほぼ中間地点。既に現地に社はないが、現地に建てられていた石碑に「三日月神社跡」と記されていた。左には「明治41年に駒形神社に移転」と書かれていた。
駒形神社を訪れた。が、三日月神社はない。境内にあるのは月読神社。だが月読神社の中には「三日月神社」と書かれた額が保管されていた。つまり同神社が「三日月やしろ」の別称だった。
漆戸さんは「当時は二十三日夜講など月の信仰が流行していた。月を読むということは農業を営む上で重要で、五穀豊穣(ほうじょう)を祈ったに違いない」という。「現在は誰も覚えていない神社になってしまったが、江戸時代の鵜飼地区の神社は駒形神社とここがあげられていて、重要で大変よく信仰されていた神社だったはず」と思いをはせる。調査を通して「追分石や供養塔などは意味があってその地にある。後世の人が勝手に移転するのは本当のやり方ではない」と感じた。
調査を助言した盛岡市西部公民館の八木光則さんは「古碑の調査は市が20年以上も前に行ったが江戸時代以前の物に限られていた。漆戸さんが調査した古碑は明治期のものも含まれており、明治になっても続いていた民衆の信仰や文化を裏付けるもの。今回の調査でもう一度石碑を見直すきっかけになるのでは」と、忘れ去られていた神社の再発見を喜んでいる。
漆戸さんは、調査結果をパネルにまとめた。「三日月やしろへの道−路傍の古碑を再発見−」と題されて同市南青山の西部公民館で14日まで展示されている。時間は午前9時〜午後5時まで。入場無料。
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