■ 〈盛岡の堰〉4 和井内和夫 市街地を流れていた堰
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赤川下流部の形成過程であるが、赤川が流れ込んでいた城の北側外堀が、明治になって城の防塞(さい)としての意味がなくなったので、土手を築いて幅を数分の一に狭め、また江戸時代の延宝年間(1673〜1680)に行われた北上川の大沢川原ルートへの切り替えにより、今の大通地区まで入り江状に入り込んで残っていた古北上川跡の水路につなげ、そしてその水路から今の下の橋の下流岩手女子高校付近で中津川に、また途中で分流し開運橋付近で北上川に流れ込むように整備したものである。
そして同時に古北上川跡の水路も埋め立て整備している。
かつて現在の大通3丁目の桜城小学校の西側にあった「新築地」の地名は、北上川を切り換えるために堤防を築いたことからきたものである。
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山岸地区で住宅街の裏を流れる「せせらぎ水路」 |
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明治中期から旧堀や水路を改良整備した理由であるが、この赤川の本来の目的である、田んぼをかんがいしてきた水や上流からの雨水を流すためのほか、明治以後開発された仁王地区や菜園の中心部を流れていたため、わき水の多い低湿地であった仁王地区や地下水位が高かった古北上川の跡地を宅地化するため、排水路の役割を持たせる必要があり、またそれらの地域の市街化に伴い、生活排水を処理する必要があったためと考えられ、その辺が河南の桜川と違うところである。
山岸部分・北山部分・原赤川部分・旧外堀部分・古北上川部分など水路全体のうち、仁王小学校から下流側が赤川と呼ばれ、河南の住民にとっては懐かしい遊び場であり、今でも子供のころに魚釣りや水遊びをしたことを覚えている人も多い。
これも戦前のことであるが、仁王小学校の下流あたりに染め物工場があり、この川の水流に染め上がった布をさらしていたそうであるので、当時も相当の水流であり水質もきれいだったと思われる。
昭和11年ころのことだったと思う。当時長町にあった第二日活館(記念館)にぜひ見たい映画が来ていた。土曜日のその日は午後から土砂降りの雨であったが無理にでかけたのである。
そのころわたしは菜園に住んでいたので、途中今の七十七銀行、当時の原敬別邸(介寿荘)の前を通ったのであるが、豪雨のため赤川がはんらんし、あの辺の道路一帯は子供の膝(ひざ)を越すぐらいの深さの水に浸かっていて、恐ろしくて見たい映画をあきらめて戻ったことがあった。
当時の赤川が市民の生活に影響を与えていたことの証明である。
またこの辺は前述の古北上川の跡で、昭和の初めごろまでは古川端という地名であったそうで、洪水時のあふれ水は元の川筋を流れるという話のとおりである。
赤川は市街の中心部、ことに戦後急速に発展した飲食店街の中を流れていたため、昭和30年代になると生活排水の流し込みによる汚染がひどかった。
また堰(せき)の幅は広い所では3メートルを超えていたため、盛岡市に下水道が普及し始めた昭和30年代以降、暗渠(きょ)化して歩行者用道路としたところも多い。大通1丁目の南部土地株式会社脇から、サンビル西側入り口付近につながる道路の幅員の半分は赤川を埋め立てたものである
赤川の痕跡は、今でも仁王小学校の南側、本町通二丁目の川口印刷工業跡地の西側、そして盛岡郵便局の裏などに残っているし、明治になってからの整備の際、排水路としての目的を持たせたためであろう、土地の段差の線に沿っている所が多いので、堰は埋めても高い方の石垣は今でもそのまま残っており、ところどころで見ることができる。
またこの堰の最上流部山岸2丁目では、最近この堰を整備し「せせらぎ水路」と名づけ環境改善のシンボルになっている。ただし、道路や雨水処理施設が未整備のせいか、汚れた雨水が流入したりしていて中途半端である。せっかく盛岡市民注目の企画であり、今後の整備を期待したい。
大通地区で赤川を暗渠化して造った道路も、地区の車両運行の円滑化という点ではそれほど役に立っているとは思われず、文字どおり盛岡の歴史と風情を埋めてしまっただけのような気がするのはわたしだけであろうか。
旧赤川跡の敷地を有効に利用している面白い例がある。新町名では本町通であるが、旧四つ家の田中地蔵尊の周辺には公民館が集中している。半径50メートル程の範囲に、四つ家公民館・仁王新町公民館・三戸町公民館の3つの公民館が集中しているが、仁王新町と三戸町の二つの公民館は旧赤川を埋め立てた土地を利用している。
(おわり)
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