酒飲みはくどしと言ひてしらじらと座を立つときに妻は他人ぞ
大庭新之介
この歌を所属する短歌会の誌上に見たのは昭和52年3月号だった。会津若松の、明治41年生まれの豪放磊落(らいらく)な人だった。お酒が好きで秋鯖(さば)の刺し身やフグのヒレ、鮭(さけ)のはららご、氷頭(ひず)なますなど、如何(いか)にもうまそうな酒肴(しゅこう)の歌が並べられた。私は入会が氏と同年ぐらいだったので、ずい分ご一緒した会場が多かった。
昭和40年代、年二回郡山で歌会が持たれた。大庭さんは磐越西線で磐梯山のふもとから、私は浜辺の町から磐越東線で二時間ぐらいかかり、時には子連れで出席したこともあった。今でも何十年ぶりに会ったりすると、「あなたがおんぶしてた子、いま何歳?」などと聞かれて赤面することがある。
昭和60年刊行の大庭新之介第一歌集には「思ひきや会津馬越(まごし)の簗場にて出羽のをみなと鮎食はむとは」の一首があり、思いがけず出羽(山形)に引っ越していたをみなが登場する。
このときは大庭氏のお招きで、仙台の大御所と会津の大内の宿を見学、会津の女流の家に泊まったのだった。私は勢いこんで「会津晩秋」百首を作り、御大二人は一夜飲み明かしておられたようだ。
そのご両人も今は亡い。大庭氏は二冊の歌集を出され、平成7年夏、脳梗塞(こうそく)で倒れて3年後に90歳で亡くなられた。8年に、それまで歌稿整理途中だったものをご子息がまとめられた「孤高」は、氏の形見となった。
ご子息は私より年長で、あたかも私がはじめてお会いしたころの大庭さんの年齢ぐらいかと、私の思いは混乱した。
生き生きて「先立つは何れか知らず歳の夜の酒酌(つ)ぎくるる妻とをるなり」という静けさ。さすがにそのころは、しらじらと座を立ったりせず、さしむかいで盃(さかずき)を傾けておられたろうか。「悪しざまに詠むにあらねどわが歌に出でくる妻を妻は好まず」とも詠まれ、明治の歌人の大いなる愛の表現を思うことである。
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