■ 〈古文書を旅する〉187 工藤利悦 「普胤鑑考」は歴代藩主による知行の黒印状所持者リスト
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【解説】
『普胤鑑考』は、盛岡藩が『系胤譜考』を編纂する過程で作成した歴代藩主による知行宛行黒印状所持者のリストであることは既述の通りである。その内実の一部を『系胤譜考』に照らして見ると幾つかの事柄が見えて来る。事例を紹介する。
▼葛西正兵衛が提示した「慶長十五(一六一〇)年五月二十三日五百石加増、合七百石御墨印」は、原物の写しを掲載している。
▼太田伊右衛門が提示した五百石御印は、系図筆頭の太田民部譜に「和賀郡太田村の称号、和賀郡沢内にて八百石を下しおかせられるの由、その証文子孫に伝えず候。民部の長男伊左衛門譜には「利直公御代[和賀ヵ]郡沢田(内ヵ)村・太田村に五百石を賜い慶長十八年七月二十一日御黒印小高竪目録頂戴子孫に伝えるなり」。
二男小十郎譜に「親民部八百石の内三百石、願の通り分地、これによって利直公より兄伊左衛門と連名の御黒印頂戴、子孫に伝える」。書状写しは見ることが出来ない。
▼大光寺儀右衛門が提示した「三千八百石」の黒印状も左衛門佐正親譜は、状写しを添えないで「天正年中花輪城代を仰せ付けられ、花輪村・尾去村・三ヶ田村・谷内村・神田村・夏井村にて三千八百石拝領」とする一方、儀太夫正徳譜(養子・実弟)に「元和二年十月二十八日附、二千五百石の利直黒印状」および、その子林茂丸正邦譜に「寛永八年八月朔日附、二千五百石の利直黒印状」に状写を複数添えて掲載する。この事例は多い。
▼鬼柳三右衛門の氏名は本文に見えないが、「寛永十年五月十日附、和賀郡横川目村にて百五十石、重直公折り紙御黒印ならびに同日附小高目録御黒印共頂戴」と記述。類似する事例もある。
▼奥瀬内蔵が提示した慶長四(一五九九)年極(十二)月八日三百石」は『系胤譜考』により奥瀬伊之助とすべきだが記述はない。代わって慶長二十年四月二十一日附黒印状、(跡目により四百石)、元和年七年五月二十八日附黒印状(加増により八百石、状写しあり)を記録する。
ここで私見は触れないこととするが、寛文六年に家老勤功により二百石加増、都合千石(同年二月七日附)の重信黒印状(状の写しはない)に興味を覚える。
重信による知行宛行に関する黒印状は、他にも存在(従来、明暦三年を下限とされて来た)するものか有無の検討が課題となる。
▼中には「代々の旧記、去る享保卯十四年酉四月大沢河原大火の節焼失云々」(野田理兵衛書上)、といった事例もある。
◇ ◇
『普胤鑑考』が掲載する家は百六十三家分である。『系胤譜考』に照らして、あえて歴代藩主別に区分すると▽信直代発給黒印状所持者十人、利直代(彦九郎分含む)同百十八人、重直代同二十五人、不明十人。ちなみに『系胤譜考』を親本とする『参考諸家系図』によると、信直以前から譜代の家臣とする諸家は百五家、信直代召抱同百五十二家、利直代同三百八家、重直代同三百六家、重信代同九百四十六家、行信代同二百七十三家、以下割愛。ここには『系胤譜考』が成立した時期を遡って廃絶した家(同族が存在すれば例外はある)は含まれていない。例えば、『正保三丙戌歳山城守重直公御代御支配帳』に散見する秋田忠兵衛、鷹巣又左衛門、湊市郎左衛門、水谷六左衛門、野矢半左衛門家など類例にこと欠かない。野田理兵衛書上の事例をみるまでもなく損亡した書状の数もまったく不明。サンプル数も決定的に少ない現状の中で全体分析に意味は感じられない。
総じていえば『系胤譜考』の総合分析を痛感してやまない。視点を変えて、利直状と比較し信直の発給文書が徹底して少ない理由を考えるときに頭をよぎるのは、九戸一揆に関連して両勢力の文書および、『南部根元記』の傍証記録が皆無である理由は何故かに興味を覚える。
多数あってしかるべき九戸政実の文書が皆無である理由と重ね合わせて考察するならば、自ずから信直発給文書が伝存しない理由が読めてくるように感じる。
信直と対峙したこの中に晴政の書状が八戸家に伝存した偶然が必然かも大きな問題であろう。
ちなみに『岩手県戦国期文書』(岩手県文化財愛護協会・昭和五十三年刊)は、同書に収録(総数四百四十八通、大膳大夫信直状とする一通は大膳大夫重信状の誤収集に付き除去した)した信直書状(百四十通、三一・二%)と利直書状(三百八通、六八・八%)の数量分析を行い、信直状は家族あてのものが多いこと、利直状の中でも知行宛行状が多数(百二十一通)を占めていることに着目。創立期を維持発展させたことを評価したうえで、地行地分布に触れて和賀・稗貫に片寄り、九戸・閉伊地方への宛行が少ないとしている。これら地方は米穀生産が皆無であったためではなかったかと結んでいる。
■ 普胤鑑考(『由緒御書物』外題) 二
切田小十郎 慶長八(一六〇三)年十月三百石御印
石井新之丞 百五十石御印(『系』記載なし)
○岩館五郎左衛門 百三十五石御印(『系』慶長十三年)
◇矢幅八右衛門 五十石御印(『系』元和中)
○野田半右衛門 百石御印(『系』慶長十九年)
金田一七太夫 慶長六(一六〇一)年十一月百石御印 武田駿河とあり
小野寺六郎左衛門 二百石御印(『系』慶安四年)
○下河原幸右衛門 百石御印(『系』寛永元年)
四戸清助 百五十石御印(『系』元和八年)
長山庄次郎 百石御印(『系』寛永六年)
●山屋儀八郎 百石御印(『系』天正十八年)
○駒木金之助 寛永四(一六二七)年十二月朔日三百五十石御印隼人とあり
○煙山十右衛門 寛永六(一六二九)年十二月二十七日三百五十石御印
七戸儀右衛門 百石御印(『系』慶長十九年)
鈴木作右衛門 百石御印(『系』慶長十七年)
○下河原武右衛門 百五十石御印(『系』寛永四年、八戸氏遠野へ知行替に伴うもの)
佐々木弥五左衛門 百石御印(『系』慶長八年)
◇遊座善右衛門 百石御印(『系』元和二年)
松橋助左衛門 百石御印(『系』慶長十五年)
○沢里十兵衛 二百石御印(『系』慶長八年)
◇米田与五左衛門 五十石御印(『系』慶長二十年)
照井太左衛門 五十石御印(『系』元和八年)
◇大光寺儀右衛門 三千八百石(『系』慶長六年)
○中野半右衛門 百石外御役料御印(『系』元和三年)
神平右衛門 慶長十九(一六一四)年五月二十七日七十石御印 彦五郎とあり(『系』彦次郎)
○和井内六太夫 元和二(一六一六)年九月二十一日二百石御印 三年もあり治部右衛門方とあり
田鎖源右衛門 六十石御印(『系』写なく利直公の時)
○船越伊助 五十石御印(『系』元和二年)
○野辺地覚右衛門 百石御印
○台 六太夫 慶長十五(一六一〇)年十月二日百石御印 才六殿とあり
松岡嘉平治 五十石御印
◇島森源五右衛門 元和五(一六一九)年二月二十七日三百石御印
●松尾左太夫 二百石御印
◇立花軍左衛門 五十石御印
○下田長兵衛 四百石御印
◇金田一善左衛門 五十石御印
○斗内清六 五十石御印
○北川斧八 二百石内五十石御加増御印
山田八太夫 百石御印
氏家弥右衛門 五十石
石亀堅固 二百石御印
●一方井武左衛門 七百石御印
◇大沢甚右衛門 五十石御印
米内孫兵衛 四百石御印米内長太夫宛所有丹後
馬場八郎左衛門 二百石御印
◆布施浅右衛門 二百石御印
◆山田九郎兵衛 二百(五十)石御印
◆宮田瀬兵衛 二百石御印
◆江刺家瀬兵衛 百石御印
◆江柄又次郎 百石御印
西海技八郎右衛門 七十石御印
上田永宅 二百石御印上田兵部
○石亀平八 別家彦七二百石御印
◆星川市郎右衛門 別家池田仁右衛門
○四戸治左衛門 別家金田一忠次郎三十二石
◆儀俄藤左衛門 寛文十(一六七〇)年十月十六日三百石御印
小笠原利右衛門 二百五十石御印
○上野九右衛門 二千石御印
○高杉金左衛門 百石御印
久保六郎右衛門
小本新右衛門 御役御印
◇横浜左伝治 五十石御印(元和五年)
○久慈采右衛門 百五十石御印津嶋孫三郎宛所
●鳥谷助右衛門 二百石御印
田口伴助 百石御印
◇岩間門太夫 五十石御印
○目時孫左衛門 四十二石御印栗谷川茂弥太 百石御印
太田伊左衛門 五百石御印
亀ケ森市郎兵衛 御役御印(慶長五年、状あり)
福田助右衛門 五百石御印
種市伊右衛門 二百石一斗二合御墨印北松斎より
瀬川久太郎 三百石御印
蛇口善四郎 元和六(一六二〇)年十二月六百石御印
○山根六郎助 二百石御印外御役
吉田孫四郎 二百石御印
久慈喜八郎 百石御印
東野義兵衛 慶長四(一五九九)年十月十六日弐百石御印勘兵衛とあり
◇荒木田次郎左衛門 五十石御印
蒔内長兵衛 百石御印
豊川市之丞 二百石(百五十石か)御印
種子右兵衛門 寛永六(一六二九)年六月二日百石御印小次郎
一条金兵衛 二百石御印
坂本六左衛門 元和二(一六一六)年七月四日二十二石四斗九升
梅内庄右衛門 林内左近御役御印
●多田孫吉 御役御印
○谷地孫也(原本・七) 御者頭御印
○吉岡嘉右衛門 百石御印
○勝又六郎兵衛 元和二(一六一六)年九月十二日百五十石百石御印〆二百五十石
◇瀬川五郎左衛門 寛永十(一六三三)年十一月十日百石御印
○江繋喜左衛門 百石御印
安ケ平二郎左衛門 百石御印
◇松岡八郎兵衛 百石御印
工藤宇太夫 別家元信弥六七十石御印
金田一又助 別家斎藤市兵衛二百石御印
内野数右衛門 二百石検地不足高慶長十七(一六一二)年五月二十二日嘉左衛門へ一石五斗御印
宮長佐野(原本・五)右衛門 宮佐月と書御印
小山田善兵衛 百石御印助内寛永十二(一六三五)年五月二十二日御印 |
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