2007年 10月 13日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〉26 岡澤敏男 国柱会信行部に入会

 ■国柱会信行部に入会

  「今度私は国柱会信行部に入会致しました」と賢治が嘉内に告げたのは大正9年12月2日の書信でした。ちょうど11月30日に1年志願兵の満期を迎え除隊して郷里に帰った直後だったのです。賢治の国柱会入会は11月中のことだったが嘉内の除隊を待って告げたものでしょう。

  「あまり突然で一寸びつくりなさつたでせう」と嘉内の胸の内をさぐっているが、高農在学中から法華経に心酔する賢治と接してきた嘉内には、それほど意外とは思われなかったのかも知れません。

  特に2年前、嘉内が退学処分に遭遇した際に切々と激励してくれた賢治の手紙のなかに、島地大等の『漢和対照妙法蓮華教』から日蓮主義法華経へと移行するのを感じていました。それは「今は攝受を行ずるときではなく折伏を行ずるときなさうです。」とあるのは、たぶん田中智学の『本化攝伏論』(ほんげしょうしゃくろん)を読んでいると察していたのでした。

  嘉内は在京時代に智学の日蓮主義に関する演説を聴講したことを賢治に語ったことがあったのでしょう。12月2日の書信に「私は田中先生の御演説をあなたの何分の一も聞いてはゐません」とことわった上で「然し日蓮聖人は妙法蓮華教の法体であらせられ田中先生は少くとも四十年来日蓮聖人と、心の上でお離れになつた事がないのです」と智学に傾倒した心情を率直に述べているのです。

  そして「これは決して間違ひではありません。即ち田中先生に妙法が実にはつきり働いてゐるのを私は感じ私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対服従します」と入会決断のいきさつを述懐したのです。

  賢治は『アザリア』グループの友人たちが、海外に雄飛し、また自発的に志願兵としての活躍しているのを聞きながら、長男として家業(質屋と古着屋)にしばられ店番をする苦悩と焦燥の日々を「おゝ邪道」と自虐していました。

  そうしたなかで賢治の孤独と苦悶を救ってくれたのが田中智学の『本化妙宗式目講義録』『本化攝伏論』でした。

  父政次郎の従弟で賢治を兄のように敬慕する三つ年下の関徳弥(登久也)が、店番する賢治の姿を「薄暗い感じのする店で…昔風な木の枠をつけた火鉢が置かれてあり、そこへ一尺幅の三尺位の長さの机が置かれて、そこで賢治は終日読書して居りました。…店の中をのぞくと賢治がひとり正座して読書してゐることは度々でした。」(『宮沢賢治素描』)と語っています。

  正座し熟読していたのが前述の田中智学の著書だったのでしょう。そして「田中先生に妙法が実にはつきり働いてゐるのを」賢治は「感じ、信じ、仰ぎ、嘆じ」て国柱会信行部に入会したわけです。関徳弥も賢治に遅れて11月23日に同信行部員として入会申込をしています。

  国柱会というのは田中智学が創始した法華系の在家仏教教団のことです。智学が明治13年に創設した蓮華会(横浜)が明治17年に立正安国会(東京)の結成となり、さらに大正3年には国柱会として再編され日蓮主義法華経の布教活動を行い東京鶯谷に国柱会館という活動拠点を構えていました。

  賢治が国柱会への入会を告げてから1週間をまたず12月上旬に「前便最早御覧の事と存じますがどうか御賢慮を以て速かに帰正入妙の日を迎へられる事を祈ります」と、賢治はさっそく嘉内を折伏にとりかかるのです。


 嘉内に国柱会入会を勧める賢治の手紙(抜粋)
     (大正九年12月上旬「書簡」一七八)

  「(前略)その御賢慮といふのは、一寸失礼に聞えるかも知れませんが、あなたの様々な宗教の比較や御進退の分別を申すのではありません。只 末法の大導師 絶対真理の法体 日蓮大聖人 を無二無三に信じて この御語の如くに従うことでこれはやがて 無虚妄 の如来 全知の正彳扁知 殊にも 無始本覚三身即一 の 妙法蓮華教如来 即ち寿量品の釈迦如来の眷属 となることであります

  全体言へば、私はこんな事をあなたに申し上げる筈がないのです。あなたは私より賢いし苦労してゐるでせう。それをとやかう言う筈がありません。只これが、大聖人の御命令なるが故に即ち法王金口の宣示なるが故に違背なく申し上げる丈です。どうか殊に御熟考の上、どうです、一緒に国柱会に入りませんか。一緒に正しい日蓮門下になろうではありませんか。諸共に梵天帝釈も来り踏むべき四海同帰の大戒壇を築かうではありませんか。

私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな。」
(後略)


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