2007年 10月 16日 (火) 

       

■  〈聞き書き橘正三伝〉1 矢萩昭二 ミイラ取りがミイラになる

     
   
     
  盛岡の近代史を画描する風変わりな老人、橘正三(たちばな・しょうぞう)、塵中庵不染(じんちゅうあん・ふせん)とも号し、その名のごとく塵中に真の生きがいを見つけようと、風雅の道に徹した一生を送った人物である。

  若いころには警視庁の巡査となり、西南戦争に出向き、盛岡に帰っては鈴木舎定の自由民権運動に弾圧を加えたかと思えば、一転その思想団体求我社の同士となり重きをなした。

  明治27年、日清戦争が起こるやいなや、大陸に夢を追い若者を引き連れ台湾に渡った。数年後、気がつけば、正三は芸の道と趣味に明け暮れる風流人としての人生を選んでいた。

  野や山を歩き、人々から聞き書きする民俗学者としての顔ものぞかせた。かと思えば夜は花街の検番で帳面付けをやっていた。常磐津林中との交遊、石原汀との茶道を通した親交は正三をして味わいのある人間へと誘っていったのである。

  実に多趣味にして、多芸、多学問、このような橘正三の一生は、今追いかけてみると、盛岡人にとって奇異な人のように思えるが、先人として讃えてあげるべきか、風流三昧(ざんまい)を心情に自由闊達に生きた彼の人生を問うとき、評価に迷うものである。

  しかし、明治・大正・昭和を生き抜いた彼の人生は盛岡の人たちにとって忘れがたい人物であり、この稀有(けう)な人物を生み出した盛岡の風土にこそ革新性を見いだすのである。

  これから述べる聞き書き「橘正三伝〜盛岡のもうひとつの近代史」はお孫さんである関川りつさん(神奈川県在住)から聞き取りしてまとめたものである。あまり知られていない橘正三の人間としての素描に迫ってみたい。

  この文を作成するにあたり、鈴木彦次郎「巷説城下町」「自由の征矢」、森嘉兵衛「不染雑録」「明治舶来づくし」などを参考にさせていただいた。

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  ■一話 ミイラ取りがミイラとなる(若き日の橘正三)

  1877(明治10)年、橘正三19歳のとき、青雲の志を抱いて上京した。西南戦役の徴募巡査に応募したが身長がわずかに基準に満たなく不合格となった。正三は「少し身長が足りないからといって、俺みたいなものを使わないとは何事だ」と怒ったという。いかにも正三らしい弁解である。

  ところが「警察官になるにはそれくらいの気骨がなければだめだ」とこれが逆に評価され、採用された。橘正三という摩訶(まか)不思議な人生の幕開けを予感するような出来事であった。

  警察官となった正三は同年2月に起こった西南戦争、9月の再乱を鎮圧する援軍として鹿児島に出かけるが、戦いは済んでいた。しかし、すぐ駆けつけたという意気に感じ陸軍卿大山巌より功労金8円を下賜されている。

  その後、正三22歳のとき、警視局(後警視庁)から密命を帯びて盛岡警察署に転勤を命じられた。当時、盛岡では鈴木舎定が求我社を拠点に自由民権運動を展開していた。密命とはこの運動を取り締まることにほかならない。

  意気揚々と盛岡に戻った正三だったが、ハタと困った。盛岡には幼なじみが多数おり、民衆の支持のあった鈴木舎定の運動を鎮静化させるのは容易ではなかった。

  彼の演説もひとたび演壇に立てば「懸河の弁を以って説きたれば、喝采の音、雷のごとく、いずれもその能弁を賞賛せり」(岩手・新聞物語)と、「演説中止」の声をかける前にはぐらされ、その絶妙な弁舌には正三も困惑するのだった。

  無理に演説中止を迫ると、「お前も盛岡人なのに、なぜいじめるのか」「官憲横暴」となじられ、ついには石まで投げつけられる始末、彼らは皆、正三を知っており、まさに檻(おり)の中に入った虎の遠吼(ぼ)えでしかなかった。

  困惑する状況の中で思量した正三は、しだいに鈴木舎定の考えに共鳴し、警察官をやめ、求我社に出入りするようになった。当初は警察のスパイではないかと疑われたが、くったくのない人柄は党友から信用されることになった。

  このようにして正三は、官憲から自由民権活動家と手のひらを返すように逆転人生を歩むことになった。当時の生き方としてはなかなかできない判断であったに違いない。このあたりがいかにも正三らしい。
(八幡平市博物館長)

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