■ 〈古都の鐘〉25 鈴木理恵 アパートの鍵を忘れた!
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やってしまった、大失敗。今年最大のものに数えられることは間違いない。アパートの鍵を郵便受けに差し込んだまま忘れて出かけてしまったのである。
午後から仕事の重なる木曜日。引っ越しがひと段落したせいか疲れを感じるこのごろで、その日は昼食の鶏の煮物もうっかり真っ黒焦げにしてしまったりとさえなかった。やんちゃ盛りのテレザちゃんやけんじくんのレッスンもあるのに、こんな調子じゃ太刀打ちできないな、しっかりしなくては…と自分の頭をたたいていた矢先である。
それでもすべてが無事に終わり、室内楽のリハーサルもレッスンもよい学びができ安どしてリング通りを走る市電から夕暮れの街並みを眺めていた。その時である。突然いやな感覚が走った。あれ、わたし、鍵はどうしたんだっけ…?
慌ててカバンの中をひっくり返し探せど鍵束は見つからない。落ち着かない思いで記憶を手繰ると、そういえば出掛けにアパートの表玄関脇にある郵便受けから手紙を取って、それから…。
その時、郵便受けに鍵を差し込んだまま忘れてきたに違いないことに気が付いた。どう考えてもそれしかない。そこにはポストの鍵だけでなくアパートの表玄関の鍵も住居の鍵も一緒にしているのである。ましてや忘れたのが自分のアパート番号の書かれたポストのところであるから、どうぞご自由にお入りくださいと言っているようなものである。
何やってるんだろう!わたしは頭を抱えた。神様、助けてください!思わず手を組んで祈る。そういえば、難しいパッセージの練習をわたしに課せられて、けんじくんが同じようにさっき祈っていたな…その情景がぼんやりと頭をかすめた。
出かけたのが午後2時半、そして今は夜の8時。その間5時間半。こんな長い間気付かずにいたなんて!とにかく、もうすぐわたしの家の最寄りの停留所であるから、このまま帰ってみるしかない。ウィーン特有の、のんびり走る市電がこの時ほど恨めしく感じられたことはなかった。
アパートの建物に着いたはいいが、当然のことながら入れない。ハオスマイスタリン(管理人のおばさん)の呼び鈴を押すがいない。「彼女は必要な時にいた試しがないのよ…」前の住人がそう言っていたのを思い出す。仕方がない。手当たり次第に住人のインターホンを押すと、ひとりが「ヤー?(何ですか?)」と受け答えてくれた。「すみません、13号に住む者です。鍵を忘れて入れなくているんです。すみませんがドアを開けてください」ぶつぶつ言われながらも開けてもらってまずは第一関門を突破。すぐに郵便箱を見るがやはり鍵は付いていない。急いで自分の部屋へ行くとドアのところに1枚の走り書きのメモがあった。
「ハロー!君の家の鍵を見つけたよ。角のベルベデーレカフェにいるから来ればいい。そうでなければ4時には家に戻っている」。こんなメッセージを残してくれるのだから悪い人ではないだろうと半ば安心しながらも、当人の家の番号も名前も書かれてはいなかったから、どこの誰かがわからない!とにかく角のカフェに走っていった。店の女主人にメモを見せると、「ああ、ゲルハルトが昼に来た時言ってたわ、俺の真上の住人がポストに鍵を忘れてったって。鍵?預かってないわねえ。彼が今どこにいるかって?さあ、わからないねえ」
アパートに戻ると、今度は運良く表玄関に誰かが入るのが見えた。理由を説明して一緒に入れてもらい、わたしの家の真下のアパートに行き呼び鈴を押す、が、不在なのだろう、音さたがない。どうしよう。ひとまず待ってみよう。ひとり、ふたりと通り過ぎる住人が新参者のわたしをうさんくさそうに見る。そのたび「メモを書いたのはあなたですか?」と尋ねるが、首を横に振る人ばかり。どうしよう。もし、このまま彼が帰ってこなかったら。ここで夜を明かすべきか、それとも友人のところへ行くべきか、あすはインスブルックに朝早く発つことになっているが、キャンセルしないといけないだろうか…。心細くも思案すること小一時間、ひとりの女性が階段を上がってきた。
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ウィーンの街角でよく見かけるソーセージスタンド |
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メモを見せると「ああ、鍵のことね。これを書いたのはわたしのボーイフレンド。今近くのソーセージスタンドで一杯ひっかけてるから一緒に行って聞いてみましょう。あなた、なんて名前?リエ?わたしはイザベラ。ほら、落ち着いて。時にあることよ、鍵を忘れるなんて。わたしも経験あるもの。それはそうと、あなた、ゲルハルトを見てびっくりしないでね。ちょっと酔っぱらってるから。朝が早い仕事でね、夜はこうしていつも息抜きなの…」
ソーセージスタンドに着き、イザベラさんがゲルハルトさんを呼ぶ。ちょっと千鳥足でわたしの2倍くらいの大きな男の人が現れた。「君かあ、鍵を忘れたのは。こんなの警察に行ったら大事になっただろうぜ。これからもなんか困ったことがあったら俺たちのところに来なあ」。ほうら、とポケットをゴソゴソと探って見なれたキーホルダーの付いた鍵を差し出した。
さあ、もう行くわよ。イザベラさんに手を引かれて、ゲルハルトさんはおぼつかない足取りでアパートのほうに帰っていった。そこは偶然にも教会広場のソーセージ屋。祈りは聞かれていたことに感謝し頭を垂れた。
人の助けや親切に知らずとも支えられている〜期せずも前回と同じ思いへの帰結である。思いがけない形で見ず知らずの人の善意というものをかけられて、人間まだまだ信じられるな、と泣きたいような気持ちになった。
後日、岩手の地酒とお花を少しお礼にドアのところに置いてきたけれど喜んでもらえただろうか。あれ以来まだ二人には会っていない。
(ウィーン在住、ピアニスト) |
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