現在では、盛岡で野球場と言えば三ツ割の県営球場のことを言うが、県営球場ができる以前は新庄の盛岡市営球場がメーンで、それに盛岡駅裏、今の盛岡駅西口にあったノンプロ盛岡鉄道管理局チームの専用球場であった盛鉄球場が岩手野球の中心であった。
盛岡市営球場は戦前からのものであり、盛鉄球場も戦後間もなくから使われており、それぞれ長い歴史があるので、面白いあるいは変わったエピソードも多い。私の知っている2、3を紹介する。
■大投手藤本のカムバック(盛岡市営球場)
昭和20年代前半の巨人軍のエースは、後に野球評論家としても知られた中上英雄こと明大出身の藤本英雄である。独特の二段モーションの上手投げから快速球を投げ、登板するだけで観衆を沸き立たせる文字通りエースであった。
昭和17年の入団以来毎年10勝以上を挙げていた。昭和22年に中日に移籍し1シーズンでまた巨人に復帰したが、肩を壊してかつての快速球投手の面影はなく、何度か先発しては打ち込まれ、なかなか1勝を挙げることができなかった。
彼にとって記念すべき巨人復帰後最初の1勝を挙げたのは、昭和25年6月、北海道遠征の往路盛岡市営球場での試合である。
試合の相手はそれまで自分が所属していた中日で、相手の投手は左腕サイドスローの三富と記憶している。
試合は9回まで2対1で中日のリードであったが、その9回裏巨人はツーアウトランナー1・2塁という、シングルヒットで同点、ロングヒットなら逆転サヨナラのチャンスをむかえた。そして打者は投手藤本である。
藤本は投手ながら強打者として定評があり、前に巨人にいたころはしばしばピンチヒッターとして使われたぐらいであったが、巨人の監督水原はピンチヒッターにこれも投手の川崎を起用した。
川崎はこの当時バリバリの主力投手の一人であった。カウントはバッターインザホールだったと思うが、ライト線に痛烈なヒットを飛ばしたのである。
ツーアウトであったので2塁ランナーはもちろん、スタートのよかった1塁ランナーまでホームインし、絵に描いたようなサヨナラゲームになった。
当時野球評論家の誰かが、投手としての全盛期には打力もすぐれているものだと書いていたが、このケースの結果で言えばまさにそのとおりで、水原監督の判断は確かであったと言えよう。
翌日か翌々日だったであろう、かつての大投手藤本のカムバックを伝える新聞のスポーツ欄の見出しは「心も晴れてスライダー」であった。
藤本は当時日本では誰も投げたことのない新兵器スライダーをひっさげてカムバックし、この北海道遠征の帰り青森球場で、後に巨人に移り活躍する平井・南村両選手がいた打力のチーム西日本パイレーツを相手に、日本プロ野球史上パーフェクトゲーム第1号を成し遂げるのである。藤本はこの後、昭和30年まで巨人に在籍し活躍している。
復活の地である盛岡市営球場は、彼にとって生涯忘れることができなかったであろう。 |