2007年 11月 2日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉190 工藤利悦 榊原さまより尾崎常右衛門をおもらいなされ候

 【解説】

  諸大名間では、家臣をくれるとか、もらうことが時折あったらしい。

  南部家でも古い例では、重直の代の寛文三年(一六六三年)に阿部豊後守忠秋家の岸半右衛門孝武をもらい受け、三百石で召し抱えたことがある。岸氏は、当初館林藩主徳川綱吉の家臣であったが阿部家でもらい受け、客分とし処遇した人材。その後のある一日、阿部家を訪問した重直が近侍する岸氏の人物を見抜き、即座に懇望。同伴して帰館したと伝える。両家親交の情景がうかがわれる。

  後年、延宝八年(一六八〇年)のこと。四代将軍徳川家綱は末期に臨み世子がなく、大老酒井雅楽頭忠清・老中稲葉美濃守正則らは鎌倉幕府の先例にならい、宮将軍擁立を図り、一方、老中堀田備中守正俊は家綱の四弟館林殿こと徳川綱吉を擁立して一歩も引かず、逼迫(ひっぱく)した会議の中、最終的に綱吉が世子と決定、五代将軍に就職するに至った(『徳川実紀』)。

  この日、重信は江戸城に登城。しかし、幕閣への面談かなわず下城したと記述(『在府留』)する。『南部家御系譜』重信譜は、家綱の没後天下の嗣君を誰にすべきかを問われた。「居並ぶ諸大名は寂として声が無きときに、重信公仰せられ演(述)べられけるは、館林殿御相続ありて可ならん、何れもの存じ入れ如何候やと満座を顧みて仰せられければ、各々一同に南部大膳大夫言上に同意に候と宣ひけるとぞ。やがて館林右馬頭綱吉公、武城に入御あり、征夷大将軍に勅任あり云々」と伝える。

  その後堀田備中守正俊(末弟勝直は重直の嗣子となるが夭(よう)死すの関係で親戚)は論功賞により大老となり、綱吉の側近阿部豊後守忠秋(岸氏を貰い請けた家柄)は老中に抜擢された。

  重信は前後して、「たちかねて上野の池の五月雨に身の毛もうすき五位のぬれ鷺」の歌を詠み、従四位下に昇進と二万石の加増とされ10万石となった。

  一見、素直に信じがたい一連の説話と史実ではあるが、かすかに垣間見えることは、重信も綱吉擁立問題に何かしらの功績があった。従って詠歌の意味するものは暗に論功賞を期待表現ではなかったのか。この間に、当時用人であった岸半右衛門孝武の活躍が彷佛されるのだが、他愛ない推論である。

  「家臣をもらい受ける」のキーワードで家臣団を見るならば、藩主夫人の附人(つけびと)とし南部家に入来した人たちがいる。本来、附人は今で云う他家への出向者である。従って、附人には交代に伴う出入りがあり、夫人没後には帰藩するのが一般的である。

  その中にあって、遠藤七郎右衛門忠珍、野々村喜右衛門房由(子孫真澄は奥羽越列藩同盟のとき、家老待遇で出席している)、中川文右衛門清治、船越三太夫の諸士は寛文六年(一六六六年)に世子行信夫人毛利氏(綱元の妹、熊子、のち剃髪して清浄院殿)に附人して南部家に入り、のち人材として召し抱られた。

  梅本所左衛門徳貞、難波貞右衛門政職は宝永六年(一七〇九年)利幹室松平氏(蜂須賀家松平飛騨守隆長女・晴子、のち仙桂院)入輿の時随伴。享保十一年(一七二六年)仙桂院が死去し、この時蜂須賀家に請うて召し抱られた。

    尾崎冨右衛門家

  本文に見る尾崎冨右衛門恭豊も利視夫人の附人として南部家に入り、のち召し抱えられた一人である。

  尾崎家の祖。行永は下総(千葉県)に生まれ、相模小田原城主(神奈川県)北条家に仕えて三十貫文を領したという。天正十八年(一五九〇年)小田原城落城で浪人となり、相模津久懸日連村(神奈川県)に住居した。

  その子九兵衛行春、その子九兵衛行次と同所に住居し、行次の三弟が常右衛門恭豊の父である小右衛門行房。恭豊は元禄十年(一六九七年)越後長岡城主榊原式部大輔政邦(高十五万石、後宝永元年(一七〇四年)播磨姫路十五万石)に仕えたが、元文元年(一七三六年)藩主利視夫人(国子、本性院)の附人として南部家に入った。本文冒頭の榊原小平太は政邦の曾孫政永。

  夫人は寛保三年(一七四三年)に死去したが、この時南部家は榊原家に請て家臣とした。この時の経緯は本文の通りである。現米七十五駄(高百五十石)を宛行われ定府となり、その後愛姫(利視三女、のち丹後田辺三万五千石城主牧野豊前守惟成室)附役を勤め、寛延二年(一七四九年)死去した。

  その跡を源吾(のち冨右衛門、市左衛門、常右衛門)恭里が相続した。宝暦二年(一七五二年)留守居となり、同六年金方百石を加増、高二百五十石となる。同七年在着使者添えの時、江戸城中で主家の家格落ちに係る幕府取扱方を阻止した行動が、忠臣の名を以て江戸市中に喧(けん)伝(徳川実紀)された。

  その功績によって金方百石を加増、高三百五十石となり用人に昇進した。その後側用人世子利謹守役兼帯となった。明和七年京都仙洞御所の造営手伝に用人としてその任に当たり、安永四年(一七七五年)隠居。如林と号して隠居料十人扶持(高六十石)を宛行われ、のち香山と改めた。寛政七(一七九五)年生涯独身で死去した。江戸下谷の高岩寺に葬った。

  本文では親子二代を同一人物としているが誤伝。後半「宝暦七丁丑年(一七五七年)のこと、佐藤左治に御在着御使者仰せ付けら云々」以降は子息恭里に関する行跡である。

  ■かたくり事件と尾崎冨右衛門

  尾崎冨右衛門恭里の名を全国に馳(は)せたのは、宝暦七年、江戸城殿中にて在着使者にかかる幕府の取り扱いに異議を申し出た一件である。

  南部家の格式は従五位下の家柄ながら、将軍綱吉の代から参議の家柄に準ずる待遇されていた(『篤焉家訓』二十三之巻)。在着使者に対する処遇も通常一般では奏者番に謁する処、老中に謁する異例の扱いであった。

  宝暦四年には老中繁多と理由で奏者番に謁したが、今回も同様となれば先例として家格低下につながりかねないと尾崎氏は判断。一説には幕府の扱いもそこにあったとするものもある。それは家臣として身命を賭けても請け難いことであった。

  殿中は騒然となり、老中評議は西尾隠岐守忠尚による「赤穂の浪士に勝るとも劣らぬ忠臣」との評価(『徳川実紀』)で決議され、江戸市中に瓦版が飛び交ったと伝える。「かたくり事件」と言われる「かたくり」は、数ある諸大名の中で「かたくり」を献上する家は唯一南部家だけであって見れば南部家の代名詞。ちなみに南部家の在着使者が持参する幕府への土産は、蝋燭(ろうそく)三箱(五十目掛百丁宛入)、昆布・干鯛各一箱、御樽一荷がしきたりであった。

  ■ 榊原様より尾崎常右衛門を御貰い成され候事
 
   寛保三癸亥年(一七四三年)八月廿三日  尾崎常右衛門

  榊原小平太様へ七月四日関新兵衛参上、尾崎常右衛門を御望みなし成さる旨、仰せ進められ候段、あなた様御用人へ申し談じ候処、追って御挨拶を仰せ進めらるべく候よし御座候処、八月八日に御留守居竹田矢左衛門を御使者にて、常右衛門儀、仰せに任せ候間、御書付を以て御挨拶仰せ進められ候。御口上御書付の趣きは左の通。

     御口上

  御在所にて弥(いよいよ)御勇健御座なされ、珍重に思召候、然れば先達て関新兵衛御使者を以って尾崎常右衛門御望なしなされたく旨仰せ進められ御念入りなされ、御深切之御儀思し召し候、これによって仰せ任せられ候常右衛門は不調法ものに御座候へども共、相応に召し仕えられ下さるべく候、右御挨拶、御使者を以て仰せ進められ候よし、別段に矢左衛門申し聞き候は、小平太様には御幼少様の御儀に御座候に付、御在所の御家老共、江戸御家老共にて相談いたし、もっともも、兼て御相談なされ候御事ゆえ、織田淡路殿、榊原大膳殿へも相談をとげられ候上、小平太様へ申上げ右御挨拶仰せ懸けられ候よし、外に御書付

  尾崎常右衛門を御貰なされたく段、仰せ下され御念入り候趣き御深切の儀に存じ候、右の者の儀は曾祖父式部大輔(政邦)の節より召仕え一通りにて遂げがたき御儀に存じ候へども共、御間柄の儀、御断りも申しがたきに付、仰せに任せ候、常右衛門儀は不調法者に候へども、何分にも召仕え下さるべく候、

    八月八日

  右に付、あなた御家老中より江戸勤番南彦八郎へ御書付を以て申し来り候に付、右委細を江戸表より今日これ申し来たる

  これより尾崎常右衛門弐百五拾石にて召仕えられ、冨右衛門と名を改め仰せ付けらる、宝暦の頃、御留守居を相勤め候処、宝暦七丁丑年(一七五七年)のこと、佐藤左治に御在着御使者仰せ付けられ、為御登(おのぼせ)成され候節、公義殿中にて御使者御取扱い、御家格の御規模を失い候事を相嘆き、一言を以て正理を申し取り候に付、公辺への御恐れこれあり、御在所へ御下げにて慎み仰せ付けらる、のち御慎み御免、翌年正月十八日、現米百石を御加恩、都合三百五拾石に成し下され御用人を仰せ付けらる。御留守居万端、遠慮なく御留守居へ加談仕るべく旨仰せ渡さる、宝暦八年正月十三日市左衛門と名改め仰せ付けらる、のち隠居を願上げ、名を香山と改む。(下略)

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします