■ 〈賢治の置土産〉29 岡澤敏男 月よ、日よ、霧よ、雲よ
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■月よ、日よ、霧よ、雲よ
賢治と嘉内とは陰陽電気さながらで相互に引き寄せる強力な引力を備えていたが、接近し過ぎると同種の電気に化して斥力(せきりょく)がはたらくようでした。賢治の呼び掛けに応じて、嘉内は父を棄て家出しようとしたときもそうでした。
賢治は「父を棄てるな」と忠告して出京する嘉内の出鼻をくじいたのです。しかし賢治のこの忠告には、自分の家出をめぐる苦い負目から発したのでした。
それは日蓮聖人が立宗の直後、まず父母を法華経にみちびいたことをふまえ、何よりも身内からと家長の父を法華経に折伏しようとしたのです。こうすることが日蓮主義では最高の親孝行とされていました。
ところが真宗の信者である父政次郎は賢治の申入れを頑として拒否したので、親子の宗教対立が口論を呼び毎日激しいやりとりをして母イチを悲しませたのでした。嘉内に出京を告げた1月24日の葉書に「進退きはまった」とあるのはその辺の事情だったのです。
出京を諦めた嘉内が「法華経及日蓮の研究」に励んでいることを伝えたのでしょう。賢治は「お手紙ありがたうございます。ありがたうございます」と二つ重ねて「ありがたう」と述べています。
そして、もはや「形丈けでも」とは言わない、正式に「大聖人御門下」になってほしいと説得しました。そして「今月の十六日は大聖人御誕生日七百年の大切な大切な日です。それ迄に一寸お出でになりませんか。汽車賃は私が半分出します。…ごはんは私の所では駄目ですがお出でになる丈なら三畳の汚い処ですが何十日でも宜しうございます」(2月上旬・書簡187)と上京を誘いました。
しかし嘉内は家庭の事情で上京できなかった。日蓮上人誕生日の2月16日の『国民日記』に
南無妙法蓮華経
救世の大聖人日蓮上人
礼拝
南無妙法蓮華経
合掌
と御生誕700年を慶祝しました。
嘉内は家から独立して日蓮主義法華経の運動に没頭する賢治が羨ましかった。2月18日の『国民日記』に「…しづかにしづかに、なんにもする事なく暮らしてしまうおれの退屈さとはづかしさ」と自嘲し、「心よく我にはたらく仕事あれ」と啄木短歌を比喩しながら「早く働きたいもんだ」と結び停滞した生活から脱出したい心をのぞかせています。
さらに20日の日記には「惰眠をむさぼれる人々、おれも又その一人だ…働くべき世界のない事は実に悲惨なことだ…鳴呼(あゝ)おれは一体どうすればいゝのだ…力よ来れ、力よ来れ」と記し、つぎの歌を添えています。
棄てゝ出でん父にもあらず寂しくも春の光を仰ぎ家 出づ
嘉内はそれまで就任を避けてきた山梨教育会書記に2月25日より出仕することになるが、その前日の『国民日記』(2月24日)に「月よ、日よ、霧よ、雲よ」と悲痛な自己ジレンマの心情を漏らしているのです。
■「月よ、日よ、霧よ、雲よ…」
(嘉内の『国民日記』大正10年2月24日より)
「小さき信仰(信仰と名づけ尊ぶさへ恥しいやうな小さきもの)を持って唯一のモットーとしてふりかざして進む我はかない人生の旅、あゝ憐れむべきものよ、おれはまだ迷つているのだ、それより唄にある〈連れて遁げよか心中をしよか、いつそ止しにして饅頭食おか〉と、あゝ饅頭でも食ふかな、どうにでもなるやうになれ、畜生、鳴呼すべてに於て小さきものよ、悲しきものよ、おれにはいま何もない、全てを忘れるために没頭するべき仕事さへもおれは持たない、いつたいこれはなんと言ふ事なんだ、幾才になつてもいくつになつても迷つてゐる奴等よ、おい、おまへたちはほんたうに可愛想だなあ、あゝ、父よ、妹よ、日蓮よ、いとしいものどもよ、おれは救はるるに値すべきものでさへない罪人なのだ、だがもう言ふまい、こんな事を言ふさへもおれはおれ自身を哀れみすぎると思つてゐるんだからな、そして月よ、日よ、霧よ、雲よ、どんどん廻つて行って呉れ、おれなぞはかまはずにな、頼むよ…」 |
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