2007年 11月 5日 (月) 

       

■  〈賢治の歌〉922 望月善次 うち寂む大講堂の薄明に

 うち寂む大講堂の薄明にさらぬ方し
  てわれいのるなり。
 
  〔現代語訳〕静かに佇(たたず)む大講堂の(夕暮れの)薄い光の中で、そうではない方向に向かって私は祈るのです。

  〔評釈〕「大正十四年四月」〔「歌稿〔B〕〕五十二首の十六首目の「778歌」で「比叡」と題された十二首の四首目であり、「大講堂」八首の三首目でもある。賢治父子のこの前後の宿泊は、二見ヶ浦・三条小橋(布袋屋)とされているから、「薄明」は、少なくとも朝のそれではない。〔「783歌」も参照〕「さらぬ方」は、「然あらぬ方」だから、「一般的ではない方向・本来とは違った方向」。「さらぬ方してわれいのるなり」は、講堂についての基本的知識がないままに記すのが気が引けるところであるけれども、(延暦寺の)大講堂において本来祈るべき方向ではないところに向かって祈るのだとした。伊勢神宮での圧倒的な讃美とは違う目がある。ところで、傍らの父は、どうしていたのか。

(岩手大学特任教授)

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