■ 〈聞き書き橘正三伝〉4 矢萩昭二 元南部藩家老石原汀翁との交流
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■第4話 元南部藩家老石原汀(みぎわ)翁との親交(風流人としての橘正三)
1894年(明治27年)、日清戦争が起こった。翌年(正三36歳)、百人長(人夫頭)となって、若い者多数を引率して台湾に渡った。このころ軍関係の工事を請け合いながらかなり羽振りをきかしていたのだった。
ところが台湾でマラリヤにかかり、まもなく盛岡に戻ってくる羽目になった。そして、このころを境にお茶をやるようになる。
まだ老け込む年でもなく、何が茶道に打ち込む心境にさせたのだろうか。きっかけは石原汀との出会いである。実にその風ぼうは似ている
石原汀は盛岡藩第12代藩主南部利済(としただ)の時、権勢をふるった人物で、強引な施政は世間から恨みを買って他の2人(田鎖、川島)とともに「三奸(さんかん)」と呼ばれた。
天保以来の百姓一揆の罪を問われ20年間、謹慎していたのであるが、明治になって謹慎を解かれ、のち江戸に上り茶の道に専念し、不白(ふはく)流(江戸千家)の奥義を極めた。
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妻フデさんの実家、和泉屋敷跡(青森県南部町小向) |
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晩年、盛岡に帰ってからは「閑松庵如白(かんしょうあんじょはく)」と号し、茶道の師匠として弟子を取り、風流を旨とする日々をすごしていた。盛岡の茶道会にあっては、自他共に許す第一人者として、その名が知れ渡っていた。
藩主の子で悪政の中心人物だったとは思えぬほど、晩年の石原汀翁は穏やかで風流人としての威容をただよわせていたのである。
正三とは、おそらく共通する心境が働いたのであろう。このとき正三は38歳で弟子入りして、すぐ茶道の手前(作法〓様式)相伝を受けている。よほど筋がよかったのか、気に入られたことは確かである。
10年後、石原汀翁は89歳で亡くなる。前年正三は「塵中庵不染(じんちゅうあんふせん)」の庵号を与えられ、茶の宗匠となっていた。石原汀の遺骸(いがい)は子孫のいる東京に埋葬されたが、正三が分骨して北山の源勝寺に葬った。その後、石原汀の後継者として茶の道に生きるようになるが、一方でそれにあきたらず、盛岡の変わりゆく風俗をいとわず見聞し、批評を交えて記録している。
さて、風流人、茶の宗匠としての橘正三は弟子に対しては優しかったらしい。古道具屋で見つけたのか、古田織部の茶杓(ちゃしゃく)を所持していた。古田織部は千利休十哲の一人で、織部焼き・織部灯篭(とうろう)でも知られる異色の戦国武将である。
その織部の作った茶杓は茶人なれば、のどから手が出るほど手に入れたい一品であるが、これと組み合わせる茶器が難しい。
それ相応のものを準備しなくてはならないからだ。「古織の茶杓がでているぞ、気をつけろ」と弟子たちもそう言いあっていたが、不思議と誰か、何かを壊してしまう。織部も完全な物の一部を壊して修繕して使うことが好きだったらしい。だからといって、弟子たちもわざと壊したものではあるまいが、正三はこのときも気にもとめず笑うだけであった。
時は流れて、茶人石原汀と橘正三、二人の因縁は時代をこえて、また実を結ぶことになる。りつさんの長女静江と石原汀の娘婿の子孫、佐山欣巳との結婚である。
佐山家は御殿医の家柄であったが、欣巳は佐山家に嫁いだ汀の娘から数えて四代目にあたる。静江も正三の曾孫になる。
どのような経過をたどって、二人が結婚するようになったかは知るよしもないが、正三と汀の子孫が、時代をへて結ばれようとは二人とも想像だにしなかったであろう。
(八幡平市博物館長) |
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