2007年 11月 9日 (金) 

       

■  〈古文書を旅する〉191 工藤利悦 信恩統と利幹統の両系が交互に継ぐ

 【解説】

  この記録は南部家三十一代信恩の略歴を記載している。治国六年。短期間であったが世子がないままに死去したため、家督は弟利幹が相続した。

  そのこと事態はさして問題ではないが、その後に遺児利視が誕生したことは南部家にとって大きな禍根を残す結果となった。大奥制度を肯定するものではないが、同制度が充分に稼動しなかった結果でもあった。

   ▼筋目の嫡子

  当主の死去に際し、嗣子(男子)が不在の場合には第三者を迎えて家を相続させる。娘がおれば婿養子を娶(めと)り、娘もいなければ近親の者を養女にして婿養子を入れる。南部家にては弟利幹が嗣子(順養子という)となり家督を継いだ。これは通常に見られる相続形式。

  仮に被相続者があり、幼児である場合には後見を兼ねて叔父などが相続する例もある。その場合、相続者に実子があっても、先代の遺児を優先して自らの相続者とするのが当時の慣例。これを「筋目の嫡子」と称した。

  実は、利幹の入嗣後に信恩の遺児利視が誕生。従って、利幹には実子利雄がいたにもかかわらず、利視を「筋目の嫡子」となすこととなり、利視の跡は先代利幹の実子利雄が継ぐという図式が定着した。

  爾来、信恩統と利幹統の両系が交互に世系は継ぐ家となった。しかも、その後の歴代藩主はいたって短命で死去したため政権は不安定を余儀なくし、南部家にとって、ひいては領民にとって誠に不幸な出来事と言わざるをえない事態が招来されたのである。

   ▼信恩を二男とする兄弟の数え方

  本文では「信恩を二男」と数えている。一方『御系図』によれば、信恩の兄弟姉妹は都合三十人いて上から十二番目。男子のみでは十六人のうち六番目。外に姉が六人と妹が八人である。なお数え方には男女関係なく初出子から順々に数える明治初年の数え方もある。

  こちらは長女(青山播磨守幸督室・伊久)・二男(信千代・嫡腹子・夭死)・三女(南部遠江守直政室・志久)・四男(重四郎・妾腹子・夭死)・五女(牧野河内守英成室・志久)・六女・七女・八男・九男(いずれも夭死)・十女(毛利駿河守高室・未久)・十一男実信(嫡腹子・嫡子)・十二男信恩(妾腹子)となり、信恩の跡を継いだ利幹(妾腹子)は十五男と数える。

  さて、何故二男なのか。実は幼年期に死没した二男・四男が順次外され、生存者で繰り上げられるしきたり。十一男実信が長男、十二男信恩が二男に数えられるに至った次第である。

  次の例もある。四十代利剛の跡を継いだ利恭は妾腹に生まれた長男であったが、幕府には文久三年(一八六三年)に提出した丈夫届に「彦太郎十六歳、妻に男子出生の時は二男に仕り候」と記載している(『国統大年譜』)。通常妾腹に生まれた子供は嫡室と養子縁組を結ぶことをしきたりとしたが、利恭の場合は変則ながら家督後に嫡室と縁組みを結んでいる。

   ▼信恩の嫡室と側室

  本文によれば、信恩は初め楢山五左衛門隆常の娘・清(号聚景院)。歿してのち新渡戸縫殿常勝娘於俊の方(号齢広院)と婚姻の挙式を挙げている。『御系図』によれば、にも拘わらず、夫人は長門府中五万石城主毛利甲斐守綱元の娘元姫。元禄十四年六月婚姻につき欽命(将軍の下命)、七月婚礼(寛保二壬戊年(一七四二)五月二十五日卒、真寿院殿了栄元昌尼公禅師 江戸白銀黄檗宗瑞聖寺に埋葬)。楢山氏および新渡戸氏は利視の生母黒沢氏(浄智院)等と共に側室として散見するのである。

  これは幕府が忌服の関係から享保九辰年(一七二四年)七月に皇族・公家・大名以外の子女との婚姻を禁止(『御触書寛保集成』)したことに起因するもの。利済の側室で三十九代利義・四十代利剛の生母楢山氏烈子の例も他例に漏れるものではなく、妻帯者で「筋目の嫡子」、あるいは右に準ずる形で入嗣した藩主全員の配偶者に共通する事象であった。

  歴代藩主の中で二十九代重信室・家士玉山六兵衛秀久女(大智院)のみが大名の子女ではない唯一の例外者。禁止令に先立ち結婚していたためである。

   ▼信恩の相続と所謂「儒者論」

  信恩が襲封の直後、先代行信の側近として施政にかかわった諸士のうち三十余名が「無筋の新法を企て御家中を騒動に導いた輩」として処罰された事件がある。

  元禄十六年三月、北川新左衛門と松田与左衛門は首謀者とし屋敷家財没収蟄居を命ぜられ、戸来勘兵衛(のちの木村治右衛門)・鴨沢十兵衛・松川藤四郎・原茂平・奥瀬安左衛門・青木甚内・松岡孫右衛門・木村久左衛門・久慈野助・内城金五郎・松田治右衛門・藤村治郎右衛門等も軽重あるが処罰せられ、足沢左十郎は父子共斬罪に処せられた。

  家老北九兵衛は老中上座加判役を免じ、蟄居を命ぜられている。無筋の新法の詳細は不明ながら、仏式による葬儀を否定して儒式による葬礼を強行したことや百姓の自分検見、その他が挙げられよう。

  太田孝太郎氏は論考「儒者論」の中で、母蓮子の父の首を刑場に盗み円光寺に埋葬したことが伝えられていることなどから「信恩の母はキリシタンの血を引いたことも理由の一つではなかったか」と推論する一方、行信の怒りは信恩を嫡子とすることに反対する密談をはじめ、数々の越権行為を指摘し、真偽不明としながらも行信の遺言説を述べている。

  蝦名裕一氏は「財政をめぐるトラブルもあったことがうかがえる」(『元禄期の盛岡藩の藩政改革と儒学について』)としている。

  一般に鹿角の産金減少や立て続けの飢饉などが財政逼(ひっ)迫の原因とする説が主流。それは否定しない。確かに百姓いたわりのために自分検見を許しているなど、画期的な善政と言える。しかし、このため蓄財を皆無にしたにとどまらず借財が累積したとなれば、後世に引き継がれた財政破綻を見ると、決して善政とは言い難い。

  隠居重信は総じて施策は国を危うすると行信を戒め、「奸人」を斥ることが第一と述べた(『内史略』)と伝えるが、行信は自身の政治で回避せず、なぜ信恩に遺言として託したのか。時間的な整合性がとれない。

  まして「御入部の賀として在々税斂を薄す、十分ヶ一なり」とあることは、信恩の施政も行信時代の継承であり、処罪は財政破綻を来した責任者処分とも見えない。ここでは、理由が錯綜しているのであろうが、原因不明なだけに矛盾が多すぎる事件が、短い信恩の時代にあったという史実を紹介するにとどめる。

  ■ 信恩公御家御相続 附御逝去の事

  備後守信恩公は行信公御二男なり、御母堂は菊池庄兵衛養女・慈恩院殿と申す。信恩公は初めは藤平または玉山刑部久信と申すなり。御兄実信公御早世に付き、久信公元禄十四年(一七〇一年)五月十五日御嫡子成りの御礼これあり。従五位下備後守に叙任なされ、同十五年に御遺業を継ぎ給ひ翌十六年御入部ありける。この時、御入部の賀として在々税斂を薄す、十分ケ一なり。

  そもそも、信恩公は延宝六年(一六七八年)盛岡に御出生。その後江戸に登り、元禄六年十六歳の時、御父行信公御家督御入部の節、御同道にて御下り(道中玉山門太夫子分になりて、玉山刑部とこの時御改めなり)、御中屋鋪(この節喜庵様・貞心院殿は御本屋鋪へ御移りなさる)へ御着あり。千石を進ぜられ、楢山五左衛門隆常の娘・清と御婚礼ありといへども、この娘儀ほどなく没して(号聚景院・元禄十一年六月十九日卒)、のち新渡戸縫殿常勝娘(於俊の方)を七戸外記(父行信の弟)の御養女にして御婚礼あり。元禄十一年なり(後号齢広院殿、正徳元年=一七一一年=七月十日卒)、元禄十二年また千石を進ぜられ(合わせて二千石)、七戸御給人御支配(一書に七戸城代とす)なさせられ、同年四月七日七戸へ御越し(五月七日御帰り)。この年江戸にて御先手小笠原十郎右衛門殿をもって信恩公御乗輿の事を阿部豊後守殿へ仰せ入らせられける。しかるに元禄十三年実信公御逝去に付き、翌年御嫡子に立ちたまいける。

  信恩公、宝永四年(一七一一年)御疱瘡を御わずらい、種々御療養といへども、日増しに重らせられ、十二月八日御新丸にて御逝去なり。惜むかな、御年三十歳、御治国わずかに六年にして東禅寺にて御葬式あり。霊厳院殿前備州大守了因義方大居士と称し奉る

(篤焉家訓)

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