2007年 11月 13日 (火) 

       

■  〈賢治の置土産〉30 岡澤敏男 遠きものにしあるかな

  ■私もお目にかゝりたい(書簡・194)

    (大正10年7月3日嘉内宛賢治の手紙)
お葉書拝見致しました。
暑くつておひどいでせう。
私もお目にかゝりたいのですがお訪ね出来ますか。 あなたの貴重な日曜日を私の所へお潰しになつてはあまりお気の毒です。見習士官なら外泊でせう。
どうです。又都合のいゝとき日比谷あたりか、植物園ででも、又は博物館ででもお待ち受けしませうか。
私は相変わらずのゴソゴソの子供ですから名誉ある軍人には御交際が不面目かも知れませんよ。
私は夜は大抵八時頃帰ります。
いづれお目にかゝれるかと思ひます。さようなら
     七月三日夜
              宮沢賢治
   保阪嘉内様

 ■賢治…遠きものにしあるかな

  大正10年2月25日、嘉内は山梨教育会書記に就任して「始めて月給取りになった」(『国民日記』)が、これは父の矛先をかわす一時的な逃避だったらしい。

  いつまでも〈小さき信仰(理想)〉をかざし定職に就かない嘉内を、惰眠をむさぼるとしか見ない父によって叱責されていたのでした。就任して半月後の日記に「のがれ出でん、新しき心の要求の止み難く悲しくも又家を出でて帰らず(中略)父よ願はくは我に我願ふ処を与へよ」(3月7日)と書いて居り、翌日の日記にも「出でん家か、止まり住むべき家か、知らず知らず、何とてかく我にはこの家(否父)に悲しまざるを得ざるか」とまだ家出の迷いをのぞかせています。しかし4月頃より、賢治も嘉内も父との対立感情が融和へと向うような心境の変化が見えてくるのです。

  賢治の父は4月初めに上京して賢治の下宿で枕を並べて一泊し、翌日賢治を伴い伊勢神宮参り、比叡山延暦寺の伝教大師千百年遠忌、聖徳太子千三百年遠忌に参詣しました。

  賢治は延暦寺東塔根本中堂の前で「ねがはくは 妙法如来正彳扁知 大師のみ旨成らしめたまへ」と詠んでおり、父の配慮を受容する姿勢がみえます。

  また嘉内は『国民日記』に「おやぢはおやぢの人生観がある、おれにはおれの人生観がある、だからいゝんだ、おやぢはおやぢの社会に住み、おれはおれの社会に住む、それでお互いが尊いのだ」(4月18日)と父の立場を理解する心情を述べています。

  あれほど頻繁だった賢治と嘉内の音信が2月下旬頃から5月初めまで空白をつくったのは、二人のこうした心境の変化とからんでいるのかも知れません。

  父を棄(す)て上京する嘉内の決意を賢治によって否定されたことや、賢治から日蓮聖人へ帰正をうながす執拗な折伏の手紙も来なくなり、嘉内は賢治との距離が次第に離れていくような気がして悲しくなりました。

  3月22日の日記に「賢治が泣き顔ぞおぼゆる/遥けき市川国府台にのぼりて江戸川を見/東京の空の夏の煙見るここち/賢治 健吉/遠きものにしあるかな」書いています。

  啄木を慕う嘉内だから「病のごと/重郷のこころ湧く日なり/目にあおぞらの煙かなしも」の歌の情景を思い浮かべたものでしょう。

  そして5月23日の日記には山梨教育会の理事長と酒を酌んで語り合い「我将来の方向やゝ決定的に見ゆ」と記して居り、村に腰を落ち着けようとする気になったらしいのです。

  ところがその1カ月後、嘉内は3カ月の甲種勤務演習に応召して7月1日に再度入営しました。前回(大正8年)の1年志願兵では軍曹で除隊したが、今回は見習士官の勤務なので少尉に任官して除隊するわけです。

  嘉内は葉書で再入営することを賢治に知らせ、東京のどこかで再会し日蓮への帰正について意見を述べたいと書き添えました。折り返し賢治は日比谷か上野の図書館あたりで待合わせしたい旨の返書を送りました。そして7月18日に、2人の友情を切り裂いてしまう運命的再会が行われるのです。

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