五話 明治青春謳歌(横川省三の友人として、フンドシ飯を食らう)
明治16年、橘正三25歳、横川省三19歳のころである。正三が警察官をやめ、岩手新聞社(現岩手日報社)に入ったが、殉国の志士といわれた横川省三も求我社に身をおいて自由民権運動の若き闘士となっていた。
正三も党友として親しくなり、友情が育(はぐく)まれていった。しかし、横川省三はまもなく上京して、自由党に身を投じている。自由民権の夢を追い続けたのである。
あわただしい人生を送った省三との友情は、わずかな時間であったが、このころの二人の話が伝わっている。横川省三は生涯、何家かの養子に入っている。この時は山岸の山田清治の養子となって、山田勇治と名乗っていた。
同年4月、稗貫郡で一揆がおきた。秣草場(まぐさば)事件といわれ、今の石鳥谷と大迫の境付近の入会地をめぐる争いであった。それとばかりに二人は駆けつける。北上川を舟でくだって行ったが、水深の浅いところがあって舟が進まない。二人は裸になって舟を押した。ようやく深いところまで押し出したが、腹が減ったので持参したおにぎりを食べようとした。どうも水っぽい。何かが混じったらしい。そばで船頭が笑っている。聞いたら「お前さんたち、おにぎりの上で、濡れたフンドシしぼったべ」といわれ、唖然(あぜん)として顔を見合わせる二人。しかし、船の上ではどうすることもできず、泣く泣くフンドシ飯を食うことになった。
明治19年9月、加波山事件(急進派自由党員が政府転覆を企て、茨城県加波山で蜂起した)が起こった。省三は上京してまもなくだったが、これに連座して捕らえられ、入獄を余儀なくされた。自分の青春と心中したようなものだった。
明治20年、民権派弾圧を目的に生まれた保安条例により、東京追放になった省三は、これを機会に盛岡に帰ってきた。岩手青年会という政治団体を組織して、青年の士気を鼓舞していた。
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横川省三の墓。北山(旧桜山)南部家霊廟地内 |
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明治22年2月、帝国憲法が発布され、盛岡でも官民合同の記念式典が行われた。八幡宮参拝の後、杜陵館で祝賀会が行われたときである。二人は飲食の支払いをめぐって、顔を殴りあうほどの喧嘩(けんか)をした。お互い譲らない。妥協しない二人の性格が招いたものと思われる。しかしすぐ仲直りをする。お互い自分の性格がわかっているからだろう。さらっとして、気持ちの転換が自由にできる二人の喧嘩は、見ていても気持ちのいいものであった。
このようにして二人は絆(きずな)を深めていったが、明治37年4月21日、横川省三はスパイ容疑でハルビンで銃殺された。40年の生涯である。まさに明治の青春を生きた人間であった。
昭和6年の春、盛岡市の北郊、高松池の湖畔の神庭山に烈士として、省三の銅像が建てられた。その制作には高橋万治という名工がたずさわった。愛宕山の仕事場に、まだ完成する前の塑造(粘土)の横川省三があって、見上げると大きかった。
ある時、工場が火事になった。だが居間の畳一枚だけ焼いて、火は不思議に消えていた。誰も消さないのに皆は不思議がったが、「横川さんが消してくれた」と思ったという。 |