■ 〈古文書を旅する〉192 工藤利悦 五門飾石や内幕飾鑓など、ご再興
|
【解説】
▽御門飾石内幕飾鎗等御再興
江戸上屋敷坪数 幸橋内此方辻番所廻り(『内史略』)によれば、飾石はどのような物か未詳ながら、南側表門前を中心に十二カ所、東門を前に五カ所あったことが知られる。
『武家提要』は「江戸居屋敷掛異例」を掲げ、「松平薩摩守、松平隠岐守、有馬玄蕃頭、井伊掃部頭、南部信濃守、松平甲斐守の諸家は栗石を門前に重ねて置く」とある。
由緒は不明だが、その他の異例を紹介する。井伊掃部頭、阿部備中守は屋敷前に掘井戸があるとか、門松に塩鯛を付ける南部信濃守家がある等の例である。
松平安芸守家では屋敷内に白牛を三頭飼い置く。松平肥前守、松平出羽守、大久保加賀守の諸家は屋敷内に祈願所を安置する。このほか金毘羅勧請するのは京極長門守家。田村大明神を勧請するのは田村右京大夫家。水天宮を勧請するのは有馬玄蕃頭。下屋敷に祈願所を建立するのは牧野日向守家。
同じく菩堤寺建立は松平肥前守、酒井修理大夫、本多伯耆守、山口但馬守の諸家。幕府から門松を拝領するのは安藤対馬守家。門松に幣を付けるのは本多伊予守家。門松を表通に三本立てるのは九鬼長門守。角飾の竹を一本立てるのは松平右京亮家。江戸一大きな門松は松平肥前守家。門松に栗の木を添えるのは田村右京大夫家。
将軍家の松飾りは「竹に葉なく竿に等し、上端を切っ先のように鋭く切り、根本に松を添える」とある。
門松の代わりに椎を建てるのは松浦肥前守家。門松の代わり人飾(門前に人が座す)は佐竹左京大夫家。表門を常に開門は井伊掃部頭と水野壱岐守家。真床飾に三つ具足を用いるのは松平薩摩守家。藩主の在府中は辻番所に荒莚を敷いて帯刀の者が下座するのは井伊掃部頭家。
辻番所に持仏堂を安置するのは佐竹左京大夫家。玄関に国主の以外で唐破風を置くのは遠山美濃守家、表門に国主の以外で両出番所を設けるのは田村左京大夫家等など。
ちなみに南部家の門内へ幕を張るのは慶長十七(一六一二)年に将軍秀忠が御成の時以来の吉例(『篤焉家訓』)とあり、『内史略』前二に「寛永中いつの頃にや、将軍家南部屋舗表門内幕の子細を尋給ふ。秀忠公渡御の昔し御宥免ありし旨、留守居松岡藤右衛門言上申けるとなり」とも見える。
▽ 大井川普請の手伝
諸国の大河の普請手伝いは大名役の一つ。本文には見えないが、享保十一(一七二六)年に阿波徳島藩主(二十五万石)蜂須賀家と共に大井川普請の手伝いを命ぜられ、南部家は河口から上流島田市地内右岸上流に向け約十八キロ区間を分担、家老新渡戸佐五左衛門以下が派遣されてその任に当たった。
短期間の工事、互いに現地での労務者募集はし烈を極めた時に、新渡戸氏の機転により人気を呼び、工事は順調に進捗し完了したと伝える。幕府の指定する請負業者への支払額は三千二百五十余両。予定の総費用は調達資金の総額を下回り、残金は老朽化していた中津川上ノ橋の改修工事費用に充当、一部は献金者に返済したと伝える。
普請手伝いは臨時の役。通常の役には他の諸侯と輪番で勤務する大名火消(一年交代)等がある。南部家の例でみるならば、浅草火の番・大手組火の番・櫻田組火の番などがあり、寛政五(一七九三)年に北方警備を命ぜられて以降は免除となった。
▽諸国巡見使の通行
このたびの諸国巡見使は延享四(一七四七)年六月二十八日南部領に入り野辺地に止宿。下北半島を一巡して三戸から鹿角に入り、浄法寺から一戸に抜けて南下。七月八日仙台領に入った。使番山口勘兵衛殿、書院番士細井金五郎殿、小姓組番士新保新五左衛門殿三使の内、新保氏および新保氏の従者の一人が領内で病死している。『登曽草紙』に山口勘兵衛談として応接に当たった目付佐藤甚兵衛のほか島立甫にかかる美談が記述されている。
▽利視と神道の普及
南部家歴代の中で神事に力を注いだ藩主は三十三代利視(一七二五〜五二)と三十八代利敬(一七八四〜一八二〇)がある。利敬は白川神道(別名吉田神道ともいう)を宮川弾正に受け、伊勢流唯一神道を両部神道に統一。自ら神官として城内の神事を司り、神職を優遇して領内諸社の興隆に勤めた。一方、利視が奉じた神道は、慎みが人の生き方、人の心に神が内在するとした、儒者山崎闇斎によって創唱された垂加神道。財政が極度に疲弊していたこととオーバーラップするが、祭りは賑々しくしなくても「信心一通り」であればよいとされ、「霊験奇端」を主とせず「清明正直」でありたい(『盛岡市史』第三巻七七頁)とするものであった。
『書留』「重信公利視公御意」によれば、国家安全・武運長久・子孫繁栄・四民御恵に思し召しありといい、北上川の源流とされる御堂観音境内の弾の池の奇端(前九年の役の時、八幡太郎義家が弓矢を地に突き刺した所から水が湧いたとする伝承がある)に関心を寄せ、強い信仰に入った(延享二年条)と伝える。
延享二(一七四五)年となれば利視にとって最晩年。信仰に傾注する動機、心の葛藤は如何なるものであったのだろうか。寛延二(一七四九)年京都吉田家に使者を立て信直の尊霊神号「信徳(ことよし)霊神」を請けて淡路丸御宮(桜山神社の前身)に鎮座、罪人の恩赦を令している。
■ 利視公御家御相続並びに御門飾石内幕飾鎗等御再興
大膳大夫利視公は、信恩公の男にて、御父逝去したまう翌年(宝永五年・一七〇八年)四月二十六日御新宅に(行信公の御妾広照院殿、利視公御母堂於安の方、御両人一所に御住居なり)御出生なされ、御母堂は、黒沢伝兵衛定治女(於安の方、後に号浄智院殿)なり。初め吉助信賀と申す。
正徳二年(一七一二年)御領千石にて、御新丸下の屋敷(下の御屋鋪ととなう)に御住居(御附梶藤内、佐藤長左衛門、中原甚五兵衛)、御実名信義と改めらる。
享保十年(一七二五年)六月、先君利幹公御逝去に付き、同月二十六日盛岡を立ちて御出府なされ、御遺跡を(十八歳)継ぎたまう。
七月二十八日、御家督御礼相済み(この時営中御礼前、水野隼人正直忠乱心、信州松本城主七万石、この時断絶、毛利主水正師就薄手をこうむる、長州府中城主五万石を領す)、同年十二月に御叙爵これあり、従五位下修理大夫と御改名、御実名信視と御改め、後に利視公と御改め成られ(延享四年=一七四七年、大膳大夫、寛延三年=一七五二年、四品に叙す)、御奥は榊原式部大輔政邦侯の御息女(邦姫、享保十一年=一七二六年御婚礼あり、寛保三年=一七四三年御卒去、本性院殿)也。
註 [御遺跡を(十八歳)継ぎたまう]
家を継ぐ場合、被相続人が生前に相続する場合と歿後の二様がある。生前に譲る場合を致仕または隠居といい、継ぐ側は家督相続と称した。一方、没後相続を跡目または遺跡を継ぐと称した。隠居には隠居差控の略でも用いられ、公家・武家に科した刑の一。これは家禄を子孫に譲らせ、仕事を退かせ謹慎を命ずること
○享保十六年(一七三一年)四月十五日江戸大火、目白夏目吉五郎殿火元にて櫻田の居亭類焼、この年利視公御在国、御奥方は榊原池の端下屋鋪へ御立ち退き(後麻布の御屋鋪へ御移り)、翌年御普請出来(勘定頭伊藤長治承之)、大書院上段御門前の飾り石再出これたまう。
○享保二十年国々産物書き上げ台命あり
○元文四年(一七三九年)六月利視公御在国の所、仙台領金花山麓へ唐船見得候に付き、御固め人数仰え付けらる、御試し等これあり
○同年八月利視公田名部下風呂御入湯、それより北通御順覧、九月御帰り
○延享二年(一七四五年)四月十二日江戸大火、麻布の別邸焼失、この時利視公御在国、嗣君信濃守利雄公御奥共に櫻田屋鋪へ御引き取り也。
○同年家重公将軍宣下に付き、諸国巡見使出る。奥州筋は山口勘兵衛殿、細井金五郎殿、新保新五左衛門殿、七月三日盛岡城下(六日町)に止宿、翌日出立、仙台領へ御移り也。家重将軍宣下に付き、寛延元年(一七四八年)九月十八日、利視公櫻田の亭に老中招請したまう。規式先々の通り也、この時の普請に大書院の上段、玄関前の内番所内幕粧いに鑓等御再興あり
○宝暦二年(一七五二年)春のころより利視公御不例にて御參府相延られ御療養ありたく旨御届け。種々御養生御祈念等成られるといへども、次第に重らせられ、あまつさえ京医吉益周助を呼び下し(三月七日着)、療養ありけれども終に届きたまわず。御年四十五歳にて四月四日(実は三月二十八日卒)御逝去成られける。四月二十二日聖寿寺へ御入寺、同御葬儀執り行われ天量院殿四品前光禄大夫宣山宗明大居士と奉称、御領の衆人、古例に准じて御当世を尊て屋形公と称す。
|
|
|
|
|
|
|