2007年 12月 1日 (土) 

       

■ 〈追悼〉津軽海峡を越えて帰る〜大坪孝二さんを送る 吉野重雄

 昭和29年、岩手県詩人クラブの創設にかかわり初代の事務局長。続いて第2代会長として、17年間にわたり会の充実発展に貢献された大坪孝二さんが逝った。11月19日の深更のことであった。

  葬儀の日は、この季節としては珍しいほどの寒気も緩んで、ほっとするような暖かい日であった。

  法事の席で、偶然にも隣り合わせた老婦人と、親しく話し合うことができた。

  北海道から駆け付けたという彼女は、私に中村ヨウと名乗った。何処(どこ)かでお会いしたような気がしたのも道理、8人兄弟姉妹と聞いていた大坪さんの末の妹さんであった。

  穏やかな話しぶりもさることながら、目の辺りが大坪さんにそっくりであった。

  この機会を逃しては2度と訊(き)けないだろうという思いが私にはあって、大坪さんの生い立ちや盛岡に養子で来た経緯など、ずいぶん不躾(ぶしつけ)な質問をさせていただいた。

  彼女は、遠い日を思い出すように床の間に飾られた大坪さんの写真を見ながら、考え考え答えてくれた。

  大坪さんがお元気だったころ、月に1度お宅で開かれる詩の合評会「土曜の会」の席で、「私は、10歳のとき根室から盛岡に養子で貰(もら)われて来た」と話しておられた。そのことを、まず確かめてみたかった。

  ヨウさんによれば、兄は2歳で大坪家に連れてこられたが、泣いて仕様がないので連れ帰り、5歳のとき改めて連れてきたのだと、両親からは聞いていたと話された。

  大坪さんは、盛岡中学を卒業してすぐに国鉄に就職しているが、自分が養子であることを知ったのは、徴兵検査の時だったらしいとも語ってくれた。

  戦中・戦後の混乱期の中で、大坪さんが連絡船で北海道へ帰る機会は何度あったのだろう。このころから詩を書き始めている。

  大坪さんは、「スープと愛と卵やき」「季節」をはじめ多くの詩集を刊行しているが、その都度ヨウさんには送り届けていた。

  「難しくて分からない」と感想を述べると、「分かってたまるか」と応酬したというくだりに、幼くして別れた兄妹の情愛が感じられて胸が熱くなった。

  大坪さんは、第3詩集「今日よりも」で、平成3年に土井晩翠賞を受賞し、押しも押されもせぬ詩人になっているが、文筆の才は母親譲りだとも聞いた。

  話が途切れたとき、ヨウさんは懐を探って古い数珠を私に見せた。

  「根室の母の形見です。紐(ひも)が古くなって切れてしまい、珠がばらばらになったのを綴(つづ)り直したものです」

  そう言って、大坪さんの写真にも見えるように、そっと私の掌に載せてくれた。

  「土曜の会」は、メンバーがいつも7〜8人で、詩だけでなく何でも話し合える楽しい会だった。

  その会の中で、いつからか忘れたが、大坪さんはよく根室の話をするようになっていた。脳梗塞(こうそく)を患ったせいもあって、同じ話を繰り返すことも結構あった。 

  そんなとき私たちは、また始まったというように顔を見合わせたりしていたが、今思うと心無いことであった。

  「兄のお骨は分けて根室に持って帰り、両親の入っているお墓に入れてやります」

  別れしなに、ヨウさんはそっと私に告げた。

  北海道の雪が、あまり深くならないうちに帰れたらいいな、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
  (岩手県詩人クラブ会長)

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