2007年 12月 1日 (土) 

       

■ 〈賢治の置土産〉32 岡澤敏男 はげ山だった七つ森

 ■はげ山だった七つ森

  盛岡から国道46号線(秋田街道)を雫石町(旧雫石村)にはいると右手に小高い円錐状の森が並んで見えます。これらの森はJR田沢湖線(旧国鉄橋場線)の南側に沿って連なる九つばかりの小山の森で、そのうちの主なる七つの森が盛岡藩(南部藩)時代から雫石村(雫石町)の入会地(共有林)だった七つ森です。

  七つ森とは生森(おおもり、348メートル)、石倉森(いしくらもり、301メートル)、鉢森(はちもり、343メートル)、稗糠森(ひえぬかもり、249メートル)、勘十郎森(かんじゅうろうもり、316メートル)、見立森(みてのもり、304メートル)そして三角森(みかどもり、399メートル)の七つの森(小山)のことを指しています。

  標高が平均300メートルくらいの小山ですが、高さ100メートルほどある街道から眺めるので丘と形容してもよいのです。

  七つ森は、たしかに「たつたいまできたばかりのやうに」「うるうるもりあがつて、まつ青なそらのしたにならんでゐる」(童話「どんぐりと山猫」)ような気がします。

  しかし「岩手山周辺地域の地質」(土井宣夫)によれば、これら小山の地質構造は500万年以上もさかのぼる中新世(新第三紀)に起源するらしいのです。そんなに古い年代に造成された山体が何百万年にもわたる風雪の浸蝕をうけて円錐状に変容し、やがて樹木に覆われる七つ森の丘になっていったのです。

  七つ森が無残なはげ山になった時代がありました。それは天保大飢饉(ききん)に襲われた時のことで、天保4年から9年にわたる5年間に及ぶ凶作によって「七ツ森赭山(しょざん)となり」と『雫石町史』にみられます。

  赭山とは禿山(はげやま)のことをさすもので、天保の大飢饉がいかにすざまじい窮乏だったのかその実情が七つ森のはげ山に象徴されています。

  それから半世紀たった明治40年代の七つ森は松の美林により美しい景観をつくっていました。ところが飢饉の災害も皆無なのに七つ森は再びはげ山の憂き目に遭うのです。それは明治政府より七つ森を取り戻すためにとった雫石村のやむを得ない措置でした。

  明治7年に山林の公私区分調査が行われた際、雫石村が入会地としての主張をしなかったのか、七つ森は官林(国有林)として国の管理下に置かれることになりました。村民の入山が窮屈になり、入会地として山林に依存してきた農民には山林資源の取得には、たとえば下草の刈取りさえ許可証が必要となったのです。

  こうした不自由さにたえかねた村民の不満が沸騰し、官林となった七つ森を共有林に取り戻す請願運動が41年4月に開始されました。そして42年3月末に価格3万7千円で払い下げが承認されました。

  だが当時の雫石村の年間経常費は5500円余(村民所得一戸平均22円余)だったから6年分に相当する払い下げ価格だったのです。雫石村はその高額の支払いに村債をあてることを決定し、その借入金の担保にしたのが七つ森の樹木でした。

  立木の伐採は42年12月より開始され大正2年に伐採、製材、搬出を完了し、雫石村は七つ森を完全に取戻しました。そして新たな造林にとりかかったのが3年後の大正5年からでしたので、宮沢賢治が初めて七つ森の歌を詠んだ大正4年ころには、まだ坊主頭を痛々しく並べていたものだったのでしょう。


  ■ 七ツ森を共有林とする証書を欠く理由について
              『雫石町史』より

「古来ヨリ持伝候共有山ナルカ故、往昔証書ノ有無…稽フル所ナク、勿論売買譲与ニ係ワラザルヲ以、今日ニ至リ、別ニ証憑トナスヘキモノ無御座候得共、本願書並此御答書ニ詳細具状仕候実歴、及従来村民等協同戮力シテ該共有林ヲ保護愛育仕候結果ニ依リ、自今森々タル林相ヲ為シタル成績ヲ以、証憑御視認被成下、歴世ノ共有山徒空ニ属シ、村民積年一致労力、水泡ニ至ラサル様、特殊ノ御憐憫ヲ垂レ、村民ノ困難御救山ヲ仰クノ外無御座候。
連署此段申上候。以上。
  明治四十六年三月八日
              南岩手郡雫石村
                 人民  一同
              右人民総代
               〃 上野広安
               〃 藤村茂七
               〃 石亀重左エ門
                (以下省略)」

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