2007年 12月 3日 (月) 

       

■  〈われらの時代〉8 和井内和夫 岩手の峠(下)

 戦後間もないころであるが、上り下り約7キロの胸突き八丁の急坂で、その当時金をもらって人を乗せる山かごが往来していた釜石と遠野の間の仙人峠を、当時釜石線の西の終点であった陸中大橋側から登った。

  軽便鉄道のため乗車人員に制限があった遠野側仙人峠駅始発の列車に乗るため、死にもの狂いで急坂を駆け下りた。仙人峠の頂上には茶屋があり、コップ1杯の水が1円であったことも忘れられない思い出である。

  県北の軽米から二戸市の金田一に抜ける猿越峠の暗闇の山中で、隣村の祭りに遊びに行った帰り、自分の村に帰る方角を間違え、反対方向である峠の頂上を目指して一生懸命歩き続ける小学生を拾った。

  下閉伊郡と岩手郡の郡境である国境峠の頂上で、乗っていたオートバイのガソリンが切れた。都合よく葛巻町の江刈集落を眼下に見下ろすことができた。できるだけ惰性を落とさず一気に下り坂をふもとまで突っ走った。

  岩手県北部沿岸に思案坂・辞職坂という険阻な峠があったと伝わっている。

  宮古と普代(下閉伊郡の北端の村)の間に、なんとか自動車が通れる道路ができたのは昭和20年代であるので、当然この話はそれ以前のことである。

  県中央から赴任したお役人が、峠越えのあまりの長さつらさに、最初の峠ではどうしようかと「思案」し、次の峠ではついにギブアップし「辞職」を決心したという寓話である。私が知っている範囲では、宮古以北の三陸沿岸沿いにはそれに当てはまるような「峠」は見当たらない。

  これはまったくの想像であるが、峠ではなく沢越えではないかと思われる。

  現在は日本で一、二の高い橋である槙木沢橋が架かっている田野畑村地内の槙木沢と、その北にあるこれも今では長大橋が架かっている松前沢は、対岸との直線距離はそれほどではないが、渓谷が非常に深く急坂のため、登り下りとも斜面を蛇行しなければならず、現在のように長スパンの橋がなければ、すぐ目の前の対岸までたっぷり1時間以上はかかった。

  蛇行しても傾斜は相当にきつく、加えて春から秋にかけてはその斜面に下草や灌木が繁茂し、また地形上風が通らないため暑苦しく、とくに峠とは違って疲れきってから登り最後の急坂にかかるということが、歩き慣れない都会の人にとっては大難儀だったと想像されるからである。

  槙木沢にも松前沢にも長大橋が架かる前の昭和20年代、電話線ルートの巡回のため、夏の暑い盛りに実際に歩いてみた実感である。

  先に下ってから登る言わば「逆さ峠」である。また峠とは違って目的地が声を出せば届きそうな目の前にあるが故に、体の疲労はもちろんであるが、それにも増して心理的な徒労感がひとしお大きかったのであろう。

  峠は昔から比喩(ゆ)にもよく使われていた「この仕事も峠を越した」「あの影響ももう峠だろう」など、良きにつけあしきにつけ盛り・ピークという意味で、古い時代の峠の重さを現しているのであるが、歩いて峠を越すことのなくなった現在では、いずれ死語になるであろう。

  道路が未整備でその上雪が積もっても除雪をするわけでもなく、また自動車の性能や信頼性が低く、しかも一般には普及していなかった時代には、鉄道が通っていない地方の人々にとっては旅行そのものが大仕事であり、とくに山間地に住む人々は峠を越えなければならず難儀なことであったに違いない。

  北上山地の沢々の奥に孤立した村の人々にとって、川筋を下って海辺の村に出ることはあっても奥山に向かって峠を越えることはめったになかったのであろう。

  前に挙げた峠の中には、郡境にあるものも10以上を数えるが、昔から「となりむら」と言う言葉はよく使われるが「となりごおり」と言う言葉はあまり使われない。峠のむこうとはあまり付き合いがなかったせいであろうか。

  昔の人にとって、峠の向こうは唄の文句にあるように「一つ山越しゃ他国の星」であったのではないだろうか。

  古い言葉であるが、笈(きゅう)を負うてにしろ、売られて行くにしろ、あるいは追われて去るにしろ、峠から見下ろす故郷に対する思いは、昔も今もそして誰しもが同じであり、小説や映画・テレビなどの数多くの作品の中で、峠が常に哀感の場として描かれる理由でもあろう。

  (盛岡市本宮)

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