笹に咲く花貧しくてむらさきの蕋ひたすらに振るを見てゐつ
吉川禎祐
師走になれば思い出す。仙台の大御所、吉川邸を訪ねたときのことだった。福島の剣の達人に、歌集出版のご相談を受け、間をとりもつような形で、二人で伺ったのだった。
吉川禎祐さん、傷痍軍人宮城療養所に入所した昭和15年ごろから歌作の実力者。17年11月には師、北原白秋の病疫に遭遇し、後は宮柊二のもとに生涯歌とともにあった方である。
「日給が八十円とふ勤め持ち世を憤(いか)りつつ妻は働く」と詠まれた戦後、奥さんは看護婦さんで家計を支えた。子も親も同居、氏は長く結核を病み、生活環境の厳しさにうたれる。
昭和29年、38歳のとき「笹の花」三十首詠にて第1回O先生賞受賞。「貧しくて暗きわが家に只(ただ)ひとつ光る鏡にわれは近づく」というような境涯詠が人々の共感を得た。
さて、昭和63年12月の第一日曜日、わたしと福島のSさんは、吉川さんの茶の間に招じ入れられた。庭には千両万両の赤い実が光り、小鳥がさかんにさえずっている。「あれは紋付鳥(ジョウビタキ)」と教えて下さった。Sさんはこの日、歌集の跋文を書いて頂くわけだった。翌春発行予定で、明るい話題にあふれ、退職された奥さんのお話も楽しく、おすしをごちそうになって夕刻までおじゃました。
数日後、吉川さんよりおはがきを頂戴し、こちらがさし上げる前にとあわてたこともなつかしい。「来年も、ぜひ」の結びが明るい。
しかし、12月25日、散歩から戻られて突然心筋梗塞で逝去という知らせ。このときの驚き、混乱。そしてこれほどの実力者にして、一冊の歌集も出しておられなかったことに今さらのように驚いた。選者として全国を歩かれ、人の面倒見は実によかった方だが、ご自分のことはつい後まわしにされてきたのだろう。享年72歳。
宮城支部の方々のご尽力により、三回忌に全歌集といえる「笹の花」大冊が発行された。巻末に「山川の激つ鳴る瀬に対ひつつ次第に悲し昭和ぞ老いぬ」を据える。禎祐逝きて13日後、昭和が終わった。
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