■ 〈古文書を旅する〉195 工藤利悦 利視公の御代に諸士の屋敷地をお改め候
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【解説】この記録により寛保元年および延享四年に諸士屋敷地の改めが行われたことが知られる。惜しむらくは集約された図面など記録は散逸して伝世していないことである。
諸士の屋鋪管理は屋敷奉行の所管事項(『御家被仰出』安永十年月)。屋敷奉行は境奉行などと同様に物頭の兼務職であった。現在「南部家旧蔵文書」(盛岡市中央公民館所蔵)として「諸士屋敷并建屋図書上」が伝世しており、その周辺について鳥瞰を試みる。
■ 伝世最古の調査記録
伝世最古の調査結果は「正保盛岡城絵図」の下絵図に見ることができる。はじめに同絵図に触れる。
正保元年(一六四四年、寛永二十一年・十二月十六日正保元年と改元)十二月二十五日に幕府は大目付井上筑後守政重を奉行として諸大名に分命し作成された絵図は内閣文庫に伝世し、「正保城絵図」と称されている。
同文庫史料目録によれば、伝存する絵図は六十三鋪。その中に盛岡城絵図一鋪がある。盛岡開市三百年記念会刊行(大正二年八月)復刻絵図や岩手県立図書館所蔵の「慶長年間盛岡絵図」並びに盛岡市中央公民館および県立図書館所蔵の「寛永図」はいずれも「正保盛岡城絵図」の下絵図である。
森嘉兵衛氏の考察によれば、『盛岡砂子』が参考史料として活用している「寛永の図」は右のいわゆる「寛永図」と同一の由、従って『盛岡砂子』に見える「寛永の図」も「正保盛岡城絵図」下絵図の部類と言えよう(拙稿「盛岡城下図」についての一考察−いわゆる「寛永図」作図の年代策定−、奥羽史談六十九号・昭和四十四年)。
正保図が寛永図の名で伝えられた理由は、正保二年の『雑書』の表紙に改元とせずに寛永二十二年と記録していることによって頷けよう。「慶長年間盛岡絵図」の命名理由は割愛する。いま岩手県立図書館所蔵「盛岡城下図」(これも同類絵図)に従って詳細を概観するならば、記載する屋鋪数は総数一、四四一戸、内侍屋敷四六五戸(内、空家敷十四戸)及び商家六三九戸分について屋敷主名、間口・奥行き間数を記載する。外に上田に三一〇戸の同心屋敷が配置されていたことを伝える。
主な侍屋敷町の戸数は重臣が居住する内丸に五九戸。以下戸数の多い侍丁を丁名順に列記すれば、上田九十八戸、仁王七十一戸、大清水四十九戸、三戸町四十三戸、馬場町三十八戸、上衆小路三〇戸、その他であった。屋敷替があれば、付箋をもって移動状況を補足していた。
しかし、その後、城下は拡張を続け、帷子小路・平山小路・大澤川原侍町が相次いで建設されるに至り、対応にも限界あり、作成を見たのが「元文絵図」。
「南部家諸役人心得手控」は元文元年(一七三六年)に屋敷奉行宛に「御屋敷図改め候様仰せ出ださる云々」と下命があったことを伝えている。従って、屋敷主名が記載する絵図は当然にして寛保元年・延享五年にも作成されていたであろうが、「寛延図」(中央公民館・永福寺蔵)を以後伝えられていない。(県立図書館に嘉永頃のことであったが所蔵されていることを記憶しているが詳細は失念)同奉行所の記録散逸が最大の理由と推考され、敢えて「天保図」等の存在に触れるならば地図に近いもので作成意図を異にした絵図群である。
■ 現存する「諸士屋敷并建屋図書上」
伝世する記録は文化三年(一八〇九年)九月に調査された屋敷ならびに建屋図である。
目付三ケ尻弥一左衛門 沼宮内左門 徒目付関栄八 物書本堂保右衛門の諸士がその任に当たった。
演説によれば「一、安永年中已来住居の者は 何丁何側何の誰より何の何月相調 何の誰住居。一、建家絵図面へは何丁何側何の誰。一、地面絵図へは何丁何側 何の年何月何の誰より相調 何の誰住居。一、借宅は家主書上 尤借宅致居候者 家賃一ケ年何程或一ケ月何程 又は何年にて何程の申合にて 借宅致罷有候旨 双方より貸借の旨趣 口上書相添。一、一丁限丁内役両人宛被仰付一丁内書上相揃 御目付へ出之」と見える。
高知諸士の外は次の八巻に纏められ六百九十二家分の屋敷並びに建屋図が納められている。
【一巻】内加賀野・内加賀野横丁・外加賀野・御徒丁・御組丁向・外加賀野裏・紙丁・袋丁、【二巻】下小路・下小路袋丁・下小路春木場、【三巻】馬場丁・馬場横丁・鷹匠小路・鷹匠小路横丁、【四巻】上衆小路・大清水・大清水横丁・東中野村・永泉寺脇・永泉寺向・仙北丁裏・仙北組丁先・赤川出口・夕顔瀬向・下栗谷川村・本御伊勢堂脇・三ツ割村関口、【五巻】上田門前丁・上田門前横丁・上田裏丁・与力丁・山伏丁・餌指小路、【六巻】三戸町・三戸裏丁・四家袋丁・仁王通丁・仁王横丁・仁王袋丁、仁王古川端片側丁、【七巻】仁王新丁・仁王横丁・仁王下袋丁・帷子丁・帷子丁横丁・帷子丁裏丁・仁王新山堂・材木町裏・川原小路、【八巻】大沢川原通丁・大沢川原横丁・大沢川原裏丁・大沢川原袋丁。
ちなみに、鷹匠小路居住九十三戸の状況をみるに、安永元(一七七八)年以前から住居と書上げている諸家は十戸のみ、想像以上に屋敷替えが頻繁であったことが垣間見える。
その後も大沢川原の拡張、加賀野新小路の建設など伝える記録は多く目にするが、諸士屋敷并建屋図の書上げがあったこと伝える記録は見えない。
■ 明治十年に岩手県士族の住所録
明治十年の士族明細帳は岩手県庁が保管。屋敷并建屋図書上ではないが住所録となっているのが同記録の特徴。ただし、現時点では後年の「何番戸」「何番地」表示と対比する記録は管見にない。したがって、大島高任は大澤川原七十七番屋敷、新渡戸稲造の実兄(養父)七郎は鷹匠小路五十三番屋敷、山屋他人は加賀野新小路三十番屋敷等とあっても現居住表示地と対比・確認するすべを知らないのは誠に残念の極みである。
【お詫び】
前回の「利視公御代年頭御儀式等御勘略のこと」の中で、ちなみに記述「正平皮包小桜威」とする具足名は「金小札緋威御具足」の誤りにつき、同文節を削除いたします。
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【講座の御案内】
来る12月9日(日)、盛岡市先人記念館を会場にして午後一時三十分より「近世こもんじょ館講座」を開催します。
演題は「近世大名論」。講師は盛岡市教育委員長(前盛岡大学学長)加藤章先生。
会費1500円、講演会というよりは、近世史を専門とされる講師を囲んでのセミナーです。多数のご来場を歓待します。
■ 利視公御代諸士屋敷地面御改
寛保元年(一七一六年)酉九月二十四日諸士屋鋪改め相廻る、御物頭袰綿忠左衛門・伴金右衛門、御帳付大川与五兵衛、下奉行御徒両人、その外足軽六人、縄張表口・裏行共に間数を相改める。
一、延享四年(一七四七年)卯三月二十六日仰せ出ださる、左の通り。
一、高知・諸士・諸医二男三男面付け、銘々より書付け相出だし候様仰せ出だされ候事、ただし、親の身帯を添え候には及ばず候、尤も何歳と書き加え申すべく候、先達て由緒書き上げ仰せ付けられ候得共、なおまたこのたび右の通り仰せ出だされ候事。
一、高知・諸士・諸医、親類縁類共へ身帯これ有り相懸り居り候分を書上げなし候様に仰せ出だされ候事。
一、高知・諸士・諸医・寺社ならびに町人等在々にこれあり、田屋地などの坪数を書入れ相出しなし申すべき旨仰せ出だされ候事、ただし、高(課税地)の内に屋敷取りこれある分は書き上げ候に及ばず候、屋敷地の内に高地これあり候わば高地を除き、屋敷地ばかり書き上げ申すべく候、もっとも坪数を相改め候てはにわかに取りまじく候間、東西南北何十間に何間と絵図をもって書き付け相出だすべく候、田屋地百姓名これあるべく候間、それ共に書き上げ申すべく候事。
右の通りこのたび仰せ出だされ候間、来月一日までに布施浅右衛門、伊藤嘉次右衛門宅まで御書き上げ成さるべく候、もし右三ヶ条の内書き上げ相そろい申さず候わば出来申す分ばかり一日までに差し出だされ、相残り候分は来月十日までに指し出ださるべく候、もっとも、仰せ出ださる筋これ無き者はその段共に右両人へ書き付けを以て申し出ださるべく候以上。
月日
一、延享五年辰五月三日盛岡中諸士丁小路共に間数改め仰せ付けられ、御武頭阿野兵部左衛門相廻る。 |
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